空き缶でしあわせ#50
心のしこり
ふと発したひと言が
誰かが言ったことと自分の意見が違う時。誰かの意見に同意したら自分の負けを認めてしまう時、否定されることを覚悟して自分の意見を話すだろうか。誰かが言ったことに同調した時、他の人が圧倒的に追い込まれてしまうとしたら、その「1人」のために異論を繰り出せるだろうか。
私は、それをやろうと努力するようになった。自分の意見と違う時は、意見を聞いた後、違うところを共有しようと努力を始めた。話を聞くだけでなく、自分の意見を話すようにしている。それは、間違いだろうか。
話し合いとは何だろう。違う意見をぶつけ合って、落としどころを見るけることだろうか。結論を出せなくても、お互いの意見を知るためだろうか。往々にして、日常生活で自分の意見を話すと気まずい雰囲気が流れる。ただ同調すればいいのに、なんでわざわざ反対意見を話すんだろう、という視線を感じる。自分のことをめんどくさいと思いながらも、その視線を無視することはできない。
常識は18歳までに身に付けた偏見のコレクションであると、アインシュタインが言っていた。最近、価値観は偏見からはみ出ているかどうかを計る「ものさし」なのではないかと思う。怖い。
心のしこり
私がこれまで、突っかかってしまった誰かの言葉について申し訳ないと思う。誰かの意見なのに「それは違くない?」とかいって否定してしまったことが何度もある。その言葉を思い出すことができないから、私という人間は心底、無責任だ。
私は、大学生の時は否定しないことが全てを認めていることだと思っていた。自分と何が違うのかとか、その人の本当のことを何も知らないのに「そういうこともあるよね」と受け入れることが認めることだと思っていた。でも、それはきっと違う。それに気づいた時、とんでもない発見をしたと思った。自分の中で咀嚼しないと、認めるなんてできない。自分に近しい問題だと、あーだこーだ考えるくせに、自分に関係ないと思うとそうなんだ、と受け入れたふりをする。認めるとは、そのくらいエネルギーが必要なのだと思う。
こうやって自分を正当化して、今まで否定してきた言葉たちを咀嚼したふりをする。