空き缶でしあわせ#42
自分という誰か
どこにいても自分は自分だった
遠い場所へ行った。国内を高速バスで8時間、そこから飛行機で6時間30分。遠いと感じるのは時間がかかったからなのか、それとも距離が遠いからなのか分からなくなる。自分が住んでいる県を車で横断するのに3時間以上かかることを思い出し、距離が遠いからだと認識する。
私は子どものころから臆病で、そのくせプライドが高かった。トップ争いができるくらいタチが悪い。「プライドが高かった」と過去の話にしようとしているのがなおさら小賢しいとさらに自分の事が嫌になる。自分で言うのは何だが、小さいころと比べると、だいぶ考え方も変わったし、臆病とプライドの高さも良い方へ改善されていると思う。昔の自分なら、考えられないことをできるようになっているから。
小さい頃は、自分がやったことがない事や、できそうにないことは、失敗するのが怖くて挑戦できなかった。少しできるようになると調子に乗りはじめ、色々と挑戦するようになるのだが。プライドが高いので自分がトップクラスにできること以外はクラスの隅っこでこそこそやっていた。今思えば、欲に忠実だったのだろうと思う。承認欲求が強すぎて否定されることを極度に恐れていたのだろう。
そんな私は20年くらい生きてきて、人並みに経験して、失敗が良いことだという考え方になった。すごい偉い人だって、専門以外のことはあまり知らないと思ったら、自分がものを知らない事なんて屁でもないと思えるようになってきた。少しは成長できているのだろうと思う。
そんな男が一人旅に出た。
自分という誰か
自分は一人しかいないけれど、なんで一人しかいないのかを証明しようとしたら、意外と難しいのではないかと思う。自分を自分だと決める要因がたくさん集まって私となっている。
私は、自分を認識していて自分の世界の中で生きているから自分だ。自分じゃない誰かも、自分を認識して生きている。自分はかけがえのない自分だけれど、他の人から見たらただの知らない誰かで。
旅行に行くと、自分は圧倒的な誰かになって、文化の中にもなかなか入り込めなくて驚くこともある。だけど、その文化の違いを肌で感じるのはものすごく楽しいし、価値観が広がる。
あなたにも、あの感覚を味わって欲しい。
さあ、自分が知らない場所に行ってみて。