ぼんやりボサノバ
その夜、私は小さなライブハウスの客席にいた。
ステージにはボサノバを歌う女性シンガー。
バンドの演奏に合わせて、
アンニュイで魅力的な歌声を披露してる。
しかし私は気持ちが落ち着かない。
女性シンガーもやりづらかったと思うが、
私も居心地が悪かった。
なぜかと言うとお客さんが私だけなのだ。
曲が終わるたびに
客席に向かって会釈する女性シンガー。
拍手をしているのは私だけ。
異様な雰囲気がつづく。
私は女性シンガーと全く面識がない。
当時、私は一人芝居の単独ライブを上演する場所を探して、気になるライブハウスや小劇場を観てまわった。
その夜も、たまたま飛び込みで入ったのだ。
ライブも中盤に差し掛かった頃、
女性シンガーは私に話しかけてくれた。
「花粉とか大丈夫ですか?」
彼女は少し鼻をすすっている。
私はいきなり話を振られドキッとしたが、
「大丈夫です」と笑顔で答えた。
今考えると贅沢な時間だ。
女性シンガーは私だけのために一生懸命歌ってくれた。
私が飛び込みで入っていなかったら、
ライブをやらずに仲間と飲みに行っていたかもしれない。
それとも無観客で彼女は歌っただろうか。
「お客さんがいなかったら空気を笑わせましょう」
帰りの地下鉄の中で桂枝雀さんの言葉をぼんやりと思い出す。
耳にはまだボサノバの余韻が残っていた。