明瞭性と曖昧性、排除と包摂
物事の何かを定める、決めるということについて、色々とアナロジー的につながったのでメモしておきたいと思います。
何かを定める・決めるとは、どういうことでしょうか?
それは「AはBである」と明瞭に述べること=B以外のすべてを捨てること
だと理解しています。
まあそのまんまですよね。
でも、これが引き起こす問題ってあらゆるところで生じると思うのです。
そうした諸問題を幾つか紹介した上で、抽象化した僕なりの気づきを整理できればいいかなあ。
何かを定義すればその定義から外れた何かの排除につながる
言葉の定義において
デザインはAだ。と言葉の意味を決めてしまえば、つまりA以外はデザインではなくなる。
これがどういう影響を及ぼすでしょう?
デザインは見た目だ!と言っている人からしたら見た目以外はデザインではないのです。
その定義から外れたものは、彼らにとっては除外対象なわけですね。
同じくデザインは課題解決だ!と言ってしまえば課題解決に関わる限りはデザインです。
でも同じく課題解決じゃないデザインの可能性を模索できなくなる危険性を孕みます。
理解することとは特定の認知構造に当てはめること
言葉の定義において何かを決めることは、「理解すること」にも関連します。理解をする、というのは特定の概念を特定の認知構造に当てはめることです。つまり、理解をした!と言ってしまった時点で、1つの認知構造にハマってしまい別の可能性を模索することが非常に困難になります。これがバイアスになっていくわけです。
だからこそユーザーのことを知っている!と言う人は危険ですよね。
ユーザーインタビューで得たデータを大量に浴び、真っ暗闇をふらふら歩くような感覚に負けそうになりながらも耐えていかないと、簡単に分かった気になってしまいます。
簡単に理解できることなんか何一つないのだ。と分かった気にならない力が必要です。
常に自分のスタンスを仮置きしながらも、それ自体を批評的に壊しアップデートする力を育む必要があります。だって分かった気になってしまった時点で、自分の認知構造の罠に陥ってしまのです。「分かる」ことってそんな安易なことではないはずだよ、ということ。
アイデンティティの確立は包摂と分断を同時にはらむ
以前LGBTQ+の事業を0から立ち上げていたときに向き合わざるを得なかったのが
このアイデンティティというものです。私はなにか?という問いです。
・レズビアンなのかバイセクシュアルなのかわからない
・男の体で生まれたけど、女性的に生きたいかもしれない、こんな私ってなんだ?
と、アイデンティティ崩壊の問題は、自分が何者なのかわからない苦しみです。しかし、別の現象として、自分はレズビアンと自覚した時点で、レズビアンにより親近感を抱くということになります。そして女性のバイセクシュアルの方々はレズビアンの方に冷たくされるということもあるといいます。
これは自分にラベルを貼ることで社会的に存在する何かであるという安全保証が得られる一方で、極端になるとラベルに相当しない人々を排除するという構造が見えます。
つまりアイデンティティの確立はつねに、そのアイデンティティグループに属する人々を包摂する代わりに、属さない人々を排除しうる
という危険性をはらんでいます。
デザイナーであることは非デザイナーとの一線を画します。日本人であることで、外人という線引を生み出します。アイデンティティの帰属意識をどこに置くかがより困難な時代で、ソーシャルメディアの影響もあり分断がどんどん加速しています。
また、日本人は村社会性が強いためにウチとヨソを画する一線が、人間関係に非常に大きな意味をもたらす傾向にあると思います。
友達が疲れていたら手を喜んで差し出すけど、赤の他人が苦しんでいても平気で見捨てられます。
別にあらゆるアイデンティティグループが存在すること自体は問題ではないですが、「存在の承認ができない」ことが究極的に排除を招きうるという危険性があります。
こうした排除を乗り越えるための方向性はいくつもあると思います。
とはいえどれもふんわりした話なんですが、このあたりに興味関心はあるのでメモ書き。
・決めることをせず、曖昧な意味合いを受け入れる耐性を身につける
・もしくは決めたことを壊せるアンラーニングをスキルとして身につける。そのスタンスを元に、壊れる前提で意思決定しシステムを創る
・またはより大きな包摂を創出するために、排除していては生きられないという認識を生む。より大きな参加グループで包摂する
・特定のアイデンティティグループに頼らないモノサシを持つ
とまとまらない文章ですが、走り書き程度に。
特に分断、排除、対話、というあたりについてはイスラエルへの旅を通じて多くを感じたために次はそれを整理していきたいと思います。