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お茶とコーヒーと日常の余白と文化

コーヒーとお茶。次なるリトル・スペースはどこに出来るのだろうか。先日のTweetからネタを得たので、これについてちょっと調べてみまして。

ぼくはほんの少し茶道をかじっていまして、岡倉天心の「茶の本」はその大きなきっかけの1つなのですが、茶の湯という文化の成り立ちから学ぶことは非常に多いと感じております。

ツイート中にも述べているのですが、こうしたリトル・スペースや日常の余白を生み出せる空間、そうしたものが現代社会や効率化された都市の中で求められていることはもはや事実でしょう。誰もが精神上の安定を得なければ生きづらさに埋もれてしまいます。

さて、岡倉天心はお茶を、美を追求する宗教のようなものだと言っておりますが、今回は「美」ではなく、共同体によりフォーカスを置きたいと思います。
茶の湯とは、元々は薬として伝来し、その後に武士や僧たちにも広まっていきました (大衆に広まっていったのは江戸時代でしたが)。お茶を飲むことを理由に集まるようになる人々。茶の湯という総合芸術には、その空間にいる人々を"共同体"として昇華させる力があり、その共同体に一種の浄土をもたらすことができる営みでした。

つまり、そこには寄り合いから、日常の余白が生み出されていったのです。しかしまた、茶の湯はその限定的空間において、茶器や茶釜、掛け軸、茶菓子、お花、茶室そのもの、あらゆる対象の文化価値を構築していきました。

こうした"共同体から成る日常の余白"と創作・新たなカルチャーの編集とは切っても切れない関係にあるのだと、歴史を振り返ると考えさせられます。イギリスにおけるコーヒーハウスも等しくはないが近しい営みだという指摘が多く見受けられます。とくに松岡正剛さんなんかは、繰り返しその指摘を行っていますね。17世紀末のイギリスにて始まった、コーヒーハウスは「民主主義」の発端でもあり、「ジャーナリズム」を生み出し、「広告」というモデルを創出し、「クラブ」を結社したと。

また、ぼくの留学先であるフィンランドでは、同じような空間として「サウナ」が位置づけられているように思えます。裸の付き合いによりすべてをさらけだせるような空間。その中で人との関係性を深めるだけでなく、ビジネスの重要な意思決定が行われる空間としても彼らの文化の中に位置づけられています。

千夜千冊:クラブとサロンにて、"クラブ"という概念を、文化の表出が成される空間として茶の湯やコーヒーハウスという現象から見出しています。クラブとは、簡単に言うと、少数からなる数寄の集まりとでもいえるでしょうか。

初期の「コミュニケーション」とはこのような信仰コミュニティの中やコミュニティ間の情報と知識と心情の交換のことをあらわしていたということである

クラブやサロンといった共同体の中では、あらゆる人が寄り合い、会話を通して情報を交わし、それぞれの情報が交差する中であるとき突然と関連性が見出され思考が紡がれます。そして、それがなぜ価値のネットワークを生み出し、文化へと昇華させられたかをこう述べています。

連歌と茶の湯が経済文化としてのネットワーク性をもちえたのは、なんといってもその両方に使用文物に関する「評価」の価値観が貫かれていたからだった。当時はこれを「好み」と言った。「数寄」は「好み」にとりこまれたのだ

結局、茶の湯においてもコーヒーハウスにおいてもなぜ"共同体から成る日常の余白"と文化創造が切り離せないのかは、この点が護られている空間だからに尽きるような気がします。

大きな社会に蔓延する市場原理から逃れ、同じ信仰をもつ小さな共同体として生き、そこのある人々だけの数寄に則り、価値を再編集していける空間こそがぼくが常日頃、日本社会やweb業界に感じていたような閉塞感と生きづらさに余白をもたらしてくれるのだと思います。こうした空間があれば、ファストフードに汚染されている安っぽい世界にも、市場のニーズにしか頼れないユーザー中心主義にも絡め取られること無く、紡いでいく芯を護りながらより豊かなカルチャーの創出の救いになるのでしょう。


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