日々のことから、内側の記録
今日はつらつらと書きながら自分をみていく、
記録。
子どもの髪の毛が上手に洗えない。
なんかいらいらしてしまう。
泡が目に入っても気が付かないし、痛いと言われるくらいゴシゴシしてしまう。
いつもそう。
なんで、こうなっちゃうの?!
はい、みていきます。スタート。
わたしも母に優しく洗ってもらった記憶はない。記憶の中でも
早く早く、早く終わりたいといった
母のイライラしたエネルギーしか感じない。
もっと優しくと訴えても却下。
私はどうしたらいいかわからない無力感や屈辱感の中にいた。
背中で母のイライラのエネルギーを受け止めて、それを感じないように硬くしていた。
そうだ。
私には体験が無かったんだ。
人は自分の習い覚えたことしかしてやれない。と教わった。
子どもの情景を今あらためてみる。
私は悪くなかった。
だって子どもだから。
(そんな理由が自分にもあるとはつい最近まで知らなかったけど。)
優しく触れてもらいたかった。
小さな背中で恐いエネルギーを受け止めていた。頑張っていた。
そして今大人の視点でみると
それは子どもが受け取るのには理不尽なエネルギーだった。
優しく触れてもらったら
母が崩れてしまいそうだとも
感じていた。
その不安定さを隠しているのは
おそらく母のプロセスだ。
これはここまで。
そんな暇なこと、おかしなこと
忙しいのにしてられへんわ
子どもにそんなんいらん、贅沢や
って散々言われて小さな私は諦めたね。
残念だけど子どものニーズは叶わなかった。
理不尽なエネルギーを受け止めながら。
優しさを求めたら恐いエネルギーがくるだろう、だから私は求めない。
それを信じ続けてきた。
それってほんとう?
優しく大人の私は紐解いていく。
まず、
優しく触れてもらうという、ニーズを持つことは持っていていい。
叶うか叶わないかは別で。
さらに、
私は理不尽なエネルギーを投げつけられた行為に対して怒りを感じてもいい。
私は
安全に、自分の中で怒りを感じることができる。
それは自分の権威のもと。
自分で自分の尊さを否定しない。
内なる炎のような流れが自分の中に立ち登り、自分の気高さ、力強さを取り戻す感覚がきた。
怒りの感情を充分に感じ、流す。
怒りを感じていくと、
背中は暖かくなり緩み
自らのスペースがいかに失われていたかわかる。
自らへの敬意、優しさ、穏やかさが取りもどされる感覚に。
これらを自らの誤認で奪っていたのか。
なんてこと、もうしない。
優しく触れてもらえなかった子どもの私を
大人の私がいつでも優しく抱きしめる。
そして
これからは、本当の暖かさや優しさの中で、
人に安全に触れてもらうことを許可し、それを体験してみたいと願う。
最後に、
私が忙しかったり、やっぱり上手くなくて
娘の髪の毛を洗えないなら
美容院のお姉ちゃんに
娘がカットしてもらうときに、
これから何度でも優しく洗ってもらったらいい。
信頼できる美容師さんに任せよう。
大人から、敬意を持ち優しく触れてもらう体験をどうぞたくさんしてもらいたい。
娘の中に、
優しい世界の体験が入っていきますよう。
娘に心からごめんねしたら、
やり方は痛いけどそれ意外はぜんぶ優しいんよ。
て、これまた優しいこと言ってくれました。
さて。
ひとりでみていったから、
もしズレや抜けがあったとしたら、、、なんて
ご安心を(って自分に言ってる)
必要があれば、また気づくためのプロセスが起こってきますから、、、!
癒しは一歩ずつ、続きます。