これが脱皮なのか!?〈96/1000〉
【ラジオ体操401日目】
『ニコチンレス生活122日目』
こんばんは。
求めれば求めるほど、求める結果から遠ざかるものが本当に存在することに気づいたコマリストです。
今日は『あの日求めていたのは何だったのか』というテーマで書いていきたいと思います。
ちょうど2日前のこと。
いつも通りの時間に目が覚めて、バタバタと朝の支度をしてから自宅を出た私。
玄関のドアを開けた時、肌を刺すようなヒンヤリした空気ではなく、柔らかくて少し暖かい空気を感じました。
”いよいよ、春めいてきたな”
そんなことを考えながら、通い慣れた道を車で走り、目的地に到着。
何気なく、フロントガラスから見える青空を覗き込んだ瞬間でした・・・。
今日は、強く追い求め、意識していた時の自分では到達しえなかった領域についてのお話です。
日々、周りの反応を気にしながら”我慢”を強いられている方のエールになったら嬉しいです。
不思議な朝
さて、まずは2日前の私が目的地に到着して空を見上げた時、何が起きたのか。
それは、
『そうだ。noteを公開しよう』と思い立ち、その場でFacebookにnoteのアカウントを晒したこと。
つい2日前までは、
『リアルの知り合いが、読んでいないからこそ自由に表現出来る』と思っていました。
実際、オフラインの知人に読まれたら恥ずかしいようなものも過去にはあります。
けれど、何故かそんなことを一切考えず、”せっかく書いてるんだから公開しようかな”という軽い気持ちに後押しされたんです。
そして、この青空を見上げてから、noteを公開するに至るまで、すごく不思議な感覚がありました。
言葉で説明するのが難しいんですが、
”空を見上げた瞬間に言葉が降りてきた。”
気づいたら、投稿する本文を作成し終わっていて、あとは写真を撮影するだけと言う状態になって我に帰りました。
”周りの建物が映り込んだら、現在地を晒すことになる。”
ふと冷静になった私は、適当な画像をネットで拾って、そのまま公開に踏み切りました。
この間、実に5分程度。
朝玄関を出る瞬間から、「生まれ変わったような感覚」を感じていたので、本当に不思議な朝だったと思います。
強く求めたあの頃
そんな不思議な感覚に後押しされながら、Facebookでリアルの友人たちにnoteを公開した私。
この後、面白い気づきを得ることになります。
実は、この時にアップしたFacebookの投稿は、過去に私がアップした投稿と比較して、圧倒的に支持率が高かったんです。
そりゃ、450日以上にわたって毎日noteを書いていることを公開したのだから、そのインパクトが大きいのかもしれません。
しかし、この高い支持率を得られているという事実に対して、言葉を選ばずに言えば、何とも思いませんでした。
私がFacebookのアカウントを作成したのが、12~13年前。
当時は、自分のプライベートなんかを周りに知って欲しくて一生懸命でした。
そこから数年間、今度は仕事においてどんなことをしているのか、周りに知ってもらいたくて必死でした。
この時期、友人や知人からの良いねやコメントが嬉しくて、記事を投稿しようものなら5分おきにアプリを立ち上げていました。
”僕はここにいるよ”
知ってほしくて、反応してほしくて、かまってちゃんだったあの頃。
今思えば、何をそんなに必死になっていたのかと不思議に思うほどです。
そんな状態だから、当然ですが反応率が良いはずがありません。
あげてもあげても求めるような結果が得られず、どんどん自信を喪失していきました。
そして、気づけば『読む専』と化して、一切の投稿をしなくなった。
”かまってもらうこと”を必死で追い求めていた憐れな私の末路です。
しかし、noteを書き続けたことが自信になったのか、春の陽気にやられたのか分かりませんが、再び投稿に踏切った2日前の私。
過去の自分との大きな違いは、
『他人の反応に一切の興味がない』ということ。
もう少し正しい表現に変えると、
『他人の反応を得るために投稿していない』という感じ。
もちろん、久々に反応を返してくれる方も沢山いました。
そんな方の反応には、「わぁ、懐かしいな」と感謝しつつも、ただそれだけ。
求めよ。さらば与えん。
こんな言葉もあったような気がしますが、今回のケースから学んだのは、これとは真逆の答え。
他人の反応という、自分のコントロールの外にあるものに固執せず、「今、ここ」に集中しましょう。
求めるものは、その先にあると思います。
じゃ、またね!
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