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白鯨物語 Completely Change Ver.【1】

 人の名前なんぞにおよそどれほどの価値があるかは知らないし
 知りたくもない。
 
 だから
 若くしてとんでもない運命に遭遇し
 途方もなく荒くれた大渦にあっという間に巻きこまれてしまった
 極めて特異な体験の語り部として登場するこの俺のことを
 とりあえずイシュメルとでも名乗っておくことにしよう。
 
 今ではもうろくすっぽ思い出せないほど遥か以前の出来事だ。
 
 世を拗ねた放蕩息子を気取り
 実力もないくせに口幅ったいことをのたまい
 おのが存在のすべてを曝け出せるほどの刺激的な機会と出会いを求めて
 どうでもいい干からびた土地を気紛れな風に吹かれて
 根拠なき情熱のみを頼りにふらふらとさまよっているうちに
 かすかすの所持金が飲み食いに吸い取られて消えてなくなり
 我に返ったときには空っ穴になっていた。
 
 頗る嘆かわしい経済的基盤に慣れ親しんだ
 お墨付きの怠け者の風来坊としては
 まあ当然の報いと言えようか。
 
 むろん覚悟はできていたはずなのに
 財布がすっからかんになった時点で急に心細くなり
 おまけに精神そのものまでもがおかしくなり
 あれほどまでに未来に向けて駆り立てていた希望が虚しく萎み
 あしたに繋がるきょうであるかどうか
 退屈にして悲惨な世間と和解する気があるかどうか
 この世が果たして生きるに値するかどうか
 といった基本的な疑問がかなり怪しくなってきたのだ。
 
 そんなある日
 炎夏に遍く覆われた
 限りなく枯れ野に近い大平原を
 灼熱の太陽にこんがりと焼かれながら独りとぼとぼ足を運んでいると
 当然の結果として喉がからからに渇き
 人間の干物になってゆく不安がかなり信憑性を帯びてきて
 あとはもう行路病者として野垂れ死にを待つばかりだと
 そう決めつけるに至った。
 

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6,408字

芥川賞作家・丸山健二の超訳「白鯨物語」(原作・メルヴィル「白鯨」)の連載を始め、小説、コラム、エッセイなどを収録した、言葉を駆使するエクス…

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