教育業界に革命を起こそうと思う。②
「授業とはなにか?」
「学ぶとは一体なにか?」
これらの問いにここまで向き合う経験は今までなかったかもしれない。
・・・キーンコーンカーンコーン
人生初の授業が終わるチャイムが鳴った。
僕の気持ちは緊張から開放された。
結論から言えば、初回はとりあえず惨敗…だったかな。
まぁこれは仕方がない。
講師が始まれば失敗の連続だろうと覚悟していたので、ある意味想定の範囲内。
ちなみにどんな失敗をしたかというと、90分授業のうち30分経たずで話すネタがなくなってしまった。
話すスピードも調整が効かず、一気に話し終えてしまったのだった。
最初はある程度、授業内容をまとめた資料を用意してしゃべって、だいたい2~3回ぐらい授業すれば何となく慣れてきた。
少しづつ喋り方や声のトーン、スピードの緩急を変化に意識が回るようになり、「先生の話すこと面白い!」と言ってくれる生徒も現れて嬉しかった。
授業に関しては、数々の成功と失敗を繰り返しながらなんとかこなしていったが、僕の中で、1つの問いが常に心を支配していた。
そしてその問いに答えを出せずに、常に全力で授業を提供できないでいたのだ。
それが「授業とは一体なんだろうか?」という問いだった。
ITやスマホが発達した時代において、変化を余儀なくされる授業のあり方
どうして僕がそこまで「授業」について考えていたのか?
時代が変わってしまったからだ。
僕らがまだ学生だった頃はどちらかと言えば、「インターネット=娯楽」という認識であり、そう頻繁にネットに触れる機会はなかった。
「ネットサーフィンが趣味です」なんて言おうもんなら、クスクス馬鹿にされてもおかしくなかった。
もっと言えば、ガラケーだったし、学校に携帯自体持ち込み禁止だった。
当時は、情報に価値があり、情報を得るには学校に行くしかなかった。
だからこそ、教科書を読み上げながら、生徒に質問しながら、黒板に文字を書きながら行う授業に意味があったのだ。
しかし今は違う。
もはや「インターネット=体の一部」と言えるほど、日常生活において必須な媒体になっている。
ネットサーフィンなんてもはや誰もがやっているわけで、それも『風呂に入る』、『歯を磨く』、『電気を消す』、そんな日常として当たり前という行為に並ぶレベルにまでネットは浸透している。
ヘタすると、ネットを使い方1つでは人を生かすことも殺すこともできるわけだ。
LINEのやり取りで自殺をする生徒も現れた。
災害時なんて顕著だろう。
ツイッターやフェイスブックなどのSNSの使い方次第で人の生き死を左右する。
それほどまでにインターネットの存在は必要不可欠品となった。
人類は手のひらサイズの端末から指一本で世界中の情報にアクセスできる。
わからない事は全てインターネットで調べれば対応できるし、いろんなジャンルのプロがブログやYou Tubeなどで知識を出し惜しみせずに提供しているのだ。
それほどまでに質の高い情報に一瞬で触れる時代において、果たして「授業」は従来の形式のままでいいのだろうか?
いや、そんなはずはない。
情報が溢れる新時代において、授業すらもあり方を変えなければならないに違いない。
そう確信した。
生徒はキレイ事ではなくリアルを知りたがっている
だから僕は、授業内容は「シラバス(授業の流れ)」とは少し違った流れで授業を展開した。
例えば、政治経済の話や副業、お金稼ぎの話などオリジナル授業をやったのだが、これが結構好評だった。
「こんなコト知りたかった!」
「こんな授業があったら良かったなぁ!」
「こんな稼ぎ方あったんだ!」
その時感じた。
これからの授業に必要なのは、世の中のリアルを伝えることではないか?
教育現場では常に「即戦力を養う」みたいなスローガンが打ち出されている。
だったら、国語、数学、社会、理科が必修科目になんてなるだろうか?
2次方程式とか古文とかそんなことよりも、
お金がどうして大切なのか?
仕事とは一体何なのか?
日本はこれからどうなるのか?
政治ってどうなってるのか?
どうやったら人とうまくコミュニケーションが取れるのか?
こういったリアルな現実社会が必修科目になり、逆に国語や数学、理科、社会が選択科目になってもおかしくないと思う。
むしろ、国語、数学、理科、社会がほとんど役に立たないこと、覚えたこと公式はほぼ忘れてしまうことを、教育を語る大人たちが1番わかっているはずだ。
「大人は子供にいろんな情報を隠しているんだな」
そう感じた。
もちろん、教養やスキルを身につけることは大切だ。
でも、それは最悪本やネットである程度カバーできる。
最近の教育現場は、どうやら「先生も生徒も一丸となって学べる環境を」
みたいなスローガンを抱えているようだが、まだまだ先生は生徒を支配しようとしている。
「子供だから」とどこか情報を出し惜しみしている。
しかし、生徒は大人が思う以上に敏感で、いろんなことに感づいている。
むしろ生徒のほうが遥かに哲学的だったりするのだ。
それをバレていないと勘違いして隠そうとしている大人たちに、シラケている風に見える。
生徒は知りたがっている、
世の中のリアルを。大人の事情を。
だから僕は平気で生徒に「大人の事情」とかその他諸々をブチまけるようにしている。
そしてこれが結構好評だったりするわけだ笑
「やりたい事は何?」と生徒に聞くと「特にありません」と答える。
同じ生徒に「お金持ちになりたい?」と聞くと「なりたい!」と即答される。
「じゃあそれがやりたい事じゃないの?」と聞くと、「あ、確かに!」みたいなことはしょっちゅうある。
いいじゃないか!お金稼ぎがやりたい事でも。
いつしか、「先生が先生らしく」あり続けることによって、「発言はすべてキレイじゃなければならない」みたいな、本音が語れない潔癖症みたいな教育現場が出来上がってしまっているのではないだろうか?
生徒との会話で僕はそう感じた。
僕は誰よりもリアルで人間臭い先生になろうと思った。
その日、その場所でしかできない授業。
僕が考えたのは以下の通りだった。
授業の特徴は、わざわざ場所や時間を制限されたうえで学ぶ環境である。
ということは、「教室でしかできないことをやるべきだ」ということ。
「自分にしか話すことができない、主観的な意見や思いを伝えることが大事」だと感じた。
少しだけ「授業とは何か?」に対する答えが見つかった気がした。
僕はその日、その瞬間にしかできない授業をするために、アナログにこだわっている。
ホワイトボードに手書きで字を書き、話すときは生徒の目を見ながら話す。
プレゼンを用意して、それを読み上げるだけの授業なら、わざわざ教室に来る必要はない。
字はデジタルだし、常にパソコンを見続けるなら、事前に動画を用意して、生徒に配布して「あとは見ておいて」で終了だ。
プレゼン資料やパソコンを用いた授業は一切しない。
生徒とのコミュニケーションを意識したライブ感のある学び場を提供することが「授業」だろうと僕は感じたのだった。
それがその時に出した自分なりの「授業のあり方」だった。
続く。