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「金の切れ目が縁の切れ目」を超える

某サイトの記事(投稿)で「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉を久しぶりに見た。
経営者であれば、一度は「金の切れ目が縁の切れ目」を体験したことがあるはずだ。
そして、経営者としては「金の切れ目が縁の切れ目」を超えていく必要があると思う。
今回は、この辺りについて書き綴っていく。


追い込まれた時が「切れ目」

経営者として会社を経営していて、「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉が出る時というのは、おおよそ以下のようなケースだろう。

・従業員に「賞与を出せない」と言ったら、「退社する」と言われた
・知人経営者に「金を貸して欲しい」とお願いしたら、「無理」と断られた
・外注先に「支払いを待って欲しい」とお願いしたら、新しい仕事を請けてくれなくなった

気持ちは分かる。
しかし、当然のことだ。
人が会社で働く主な目的は「金を稼ぐこと」だし、会社が経済活動をする主な目的も「金を稼ぐこと」だ。
金が無くなれば、経済社会から撤退するのがルールである。

ただ、その「縁の切れ目」は、本当に「金の切れ目」から来るものなのか?
私には、そこに疑問が残る。

自己中心的な考えになっていないか?

おおよその人は、追い込まれると自己中心的な考え方になる。
目先のことしか見えなくなり、相手のことを考えられなくなる。

例えば、従業員に「賞与を出せない」という状況になったとする。
経営者であれば、そもそもその状況にならないようにするのが何よりも重要なことだ。
少し追い込まれた時点で、経営を立て直すために全力を出すべき。
キャッシュに余裕がないのであれば、余裕を持てるように銀行、信金、国庫などから融資を受けるべき。
「退社する」と従業員が言ったのは、賞与の有無が原因ではなく、会社に未来がないと確信したからではないのか?

例えば、知人経営者に「金を貸して欲しい」とお願いして、断られたとする。
その時、事業計画書の一枚でも提示しただろうか?
そもそも、知人に頼る前に、銀行へ行っただろうか?
返済に何の根拠もなく、相手に何のメリットもなく、金を貸して欲しいと言うことが失礼だと思わないだろうか?
せめて「金を貸して欲しい」ではなく「仕事をください」と言えなかったのか?

例えば、外注先に「支払いを待って欲しい」とお願いする人は、自分が「支払いを待って欲しい」と言われた時に、どのような対応をしてきただろうか?
逆に外注先から「前払いで金が欲しい」と言われた時に、前向きに対応してきただろうか?

相手は、自分の行いを写す鏡だ。
自分が相手を報っていなければ、相手も自分を報ってくれない。
一方的に、相手に何かを望んでも返って来ない。
それを望めば、去っていく。

――― 弱い心が切れ目を生む

多くの場合、これが「金の切れ目が縁の切れ目」の原因だ。

「金の切れ目」から卒業する

「義理人情」というもの。
たしかに、これが通じない人もいる。
そういった人との関係は「金の切れ目が縁の切れ目」で良いと思う。
私の場合、極力そんな空気が漂う人や会社とは付き合いを深めないようにしている。

しかし、仕事を通じて確固たる信頼を得た人、会社は大切にした方が良い。
「仲間」という感覚が一番しっくり来る。
そして、その仲間との義理人情は、何よりも大切にした方が良い。

・普段の請求/支払に一切のミスがないこと
・仕事に手を抜かないこと
・互いのミスをカバーし合うこと
・くだらない小細工や嘘をつかないこと

この辺りのことをしっかりとやれば、十分に信頼は高まるはずだ。
あとは、経営者として

・会社の経営を真摯(ホワイト)にすること
・約束は絶対に守ること

この2つがあれば、何かあった時には助けてくれるはずだ。
助けてもらえないのは、自分が助ける側になる力と実績がないから。
そのくらいの心持で「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉を口に出したら負けだと思わなければいけない。

――― 金の切れ目が縁の切れ目だって?

当たり前でしょ?
このくらいの感じで丁度良い。

そして、良い時は人を助け、悪い時は人に助けを求める。
まるで小学校の道徳の授業で習ったような陳腐な言葉だが、これこそが重要なことだと思う。

ただし、人に助けを求める前に、死ぬ気で自己解決を試みることも重要だ。
善意に助けられることが癖になると、経営者は腐る。


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