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社長インタビュー〜修行時代〜

ぬれやき煎®️」「半熟カレーせん™️」「焼生せんべい久助」 など、注目を浴びているお煎餅の製造元である『有限会社まるせん米菓』。「老舗が多い米菓業界で、最も若い会社です。」と、町田社長は言う。『まるせん米菓』、そして直販ブランドである『煎餅屋仙七』の誕生と今後の展望を聞いた。

町田社長のルーツを教えてください。

 戦前の1927(昭和2年)に、埼玉県比企郡川島村(現在の川島町)で、町田仙七、定吉、源三の3人兄弟が、「まるせん」という屋号で煎餅屋を開業したのが始まりです。
 戦時中は一時的に煎餅屋を中止していましたが、戦後まもなく3人の兄弟は別々にお煎餅の工場を立ち上げ、米菓業を再開いたしました。
 人一倍研究熱心だった初代町田仙七は、数々の米菓製造機械を考案し、独自のこだわり米菓をつくり上げました。
 祖父の会社は、当初伯父と父郁夫が継承し、現在その会社は今も埼玉の川島町で私のいとこが後を継いでいます。

大学卒業後は、すぐに米菓業界に入られたのですか?

 私は大学を卒業後、リゾートホテルに就職し、沖縄でマリンスタッフとして働くことになりました。28歳の時、名古屋へと転勤となり、営業の仕事に就きましたが、現場で体を動かして働く方が性に合っていたので、なかなか営業職になじめず、会社を辞めて実家に戻りました。
 埼玉に戻り、しばらく考えた末、「やっぱり煎餅しかない。祖父から父が受け継いだものづくりの精神。それを私なりに後世へ伝えていかなければならない。」と決めました。
 父親に「米菓の仕事がしたい」と相談すると、「本当にやる気があるのなら修行してこい」と言われ、29歳から41歳になるまでの12年間、栃木・茨城にある米菓メーカーで、煎餅づくりの技術を学びました。

修行をしながら、その中で独立を考えるようになられたのですね。

 そもそも自分の会社を持ちたいという気持ちがありました。それは父と母の思いでもあったので、どうしても形にしたかったのです。

茨城県の真壁町を選ばれたのには理由がありますか。

 独立を考えているときに、知り合いの建築屋さんから真壁町白井にあるこの土地を紹介されました。真壁の土地についていろいろ調べてみると、お酒の蔵元がいくつもあり水質がいいことが分かり、また美味しいコメができることも分かり、煎餅づくりに適した土地であると判断し、当地で創業することに決めました。

本社からは日本百名山「筑波山」が望める

修行時代のお話を聞かせてください。

 私は栃木の中堅メーカーに就職し、生地を勉強することが出来ました。煎餅屋の朝は早く、早出は朝4時から仕事が始まり、仕事が終わるのはだいたい夕方6時頃でした。その当時、生地の乾燥も見ていた私は、人が足りない時、引き続き乾燥の仕事もこなすこともあり、労働時間は長時間に渡りました。

 朝の4時から働き出し、乾燥の仕事が終了したのが翌朝の3時という時もあり、実に23時間労働の日もありました。

 この会社で私は、お煎餅の師匠と出会い、そして煎餅づくりのいろはを教わりました。その師匠の教えは今も私の煎餅づくりの中に生きています。

 また、ある会社の会長さんに言われたことが「煎餅をやりたいなら、生地だけじゃなくて、焼き、味付け、包装、企画まで、全部しないとだめだよ」ということでした。

 そして4年でこの会社を辞めました。

 次にお世話になったのが茨城のメーカーでした。このメーカーでは、米菓づくりでやってはいけないことを数多く学んだ気がします。メーカーによって製造方法はまったく違い、そして作り手によって商品はいかようにも変化するということです。結局、古い技術者と意見が合わず、3年でこの会社を辞め、次を探しました。

 次にお世話になったのが、栃木県佐野市にある厚焼で有名な中堅メーカーです。そこで焼成と商品開発を勉強させていただきました。商品開発担当をしていた時、社長に呼ばれ、1枚の煎餅を渡されました。それが「ぬれせんべい」でした。


ぬれせんべいとの出会い」へ続く


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