和菓子で鹿嶋を面白お菓子くしたい7代目 ~番外編その2~ 運命の日
お待たせいたしました、いや、お待たせし過ぎたかもしれません。
日本橋高島屋さんの出店や都内店舗の準備ですっかり遅くなりましたが、丸三老舗の過去の出来事について赤裸々に語るお時間がやってまいりました。
まずはこれまでの記事のおさらいから。そしてまだ過去記事御覧になられてない方は是非こちらの記事から…
番外編のその1で、若旦那はこのように結びました。
『みんなにキチンとゴメンねして、何とか丸三老舗の営業が継続できることになったんだけど、そのあとも毎日のようにトラブルだらけで若旦那は毎日モー大変☆…そんな中、リーマンショックを超える一大事件が勃発…!マグニチュード9の揺れが丸三老舗の屋台骨を大きく揺るがす…(物理)』
ということで、賢明な読者の皆様はすぐに察したであろう、東日本大震災前後のことについて書かせていただきます!
良くも悪くも、東日本大震災という一生に一度あるかないかの大きな天災によって丸三老舗再建の第1フェーズが(なかば強制的に)終わり、現在につながる第2フェーズに入ることになります。
まず、震災前の状況から書いておきますが、若旦那が鹿嶋に戻ってきてすでに3年半ほど経過しており、何かと問題の多かった親類は、一部を除きほぼ全員丸三老舗の経営からはご退場頂いております。
何かと現場に問題(当時は労働環境の整備も追いついてなかったもので、主に人に関わるトラブルが…汗)は抱えつつ、売上については初年度以降は増収増益、当時ブーム(?)だった過払い金請求などを活用し、簿外の借り入れはだいぶ整理され、取引先への買掛残もほぼ0に。
税金の滞納などは本税以外の延滞金などはマルッと残っていましたが、誠意をもって返済計画を出して、地道にコツコツとやっていました。
震災前に結婚した奥様がECの担当をするようなってから売上は毎年1.5倍ペースで伸び続け、中高校生時代の友人に店舗運営を任せ、自分は経営に集中できたのが良かったのかもしれません。
また、少しずつではありますが、ある程度丸三老舗の仕事から離れられる時間も出来てきたもので、鹿島神宮参道で何かやりたいなぁ…などと考え始めていて、先達の皆様のご支援もあって茨城県の商店街活性化のコンペで勝ち残り、150万円ほどの補助金を受け、鹿島神宮参道に賑わいづくりの為に出店もしてました。
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ヒマな人は、若かりし頃の若旦那がどこにいるか探してみよう!←
(この出来事も、これはこれで田舎特有のアレで立ち上げ直前はかなり荒れましたし、個人的にも地元のあちらこちらに対する不信感をガッツリ植え付けられる経験でしたが、それもまた別の機会にじっくり…笑)
そんなこんなで、丸三老舗にも少し日が差してきたかなーと思っていたそんなタイミング。忘れもしない3/11。東日本大震災が起こります。
その日は朝からPCの調子が悪く、DELLのコールセンターに電話をしてカタコトの日本語を話す外国人のオペレーターさんと話してたら突然グラリ…。
これまでに感じたことのない激しい揺れを感じ、うおーーーー地震だーーーーでかいーーーーーと叫んでお向かいの花屋さんの広い駐車場に飛び出しました。(この時に電話で話してた外国人のオペレーターさんはビビっただろうなぁ…)
まるで豆腐かコンニャクのように激しく揺れる丸三老舗の本店、不穏な空気間、得も言われぬ濁った色をした曇り空。
丸三老舗に出社していたスタッフ全員の安否確認後、当時鹿島神宮参道に出店していたお店のスタッフの安否確認に向かいます。
そちらはコロッケがメインの商品で、業務用のフライヤーを置いていたので、厨房内は油まみれ…。
ただ、仕込み中で油に熱は入っていなかたったのが不幸中の幸いということで、スタッフの女の子と一緒に油のふき取りを始めたところまたしても揺れが。
そちらのお店は古い建物だったので危険を感じ神宮参道の広い歩道に出た瞬間、物凄い衝撃音が鳴り響き、鹿島神宮の石製の大鳥居が目の前で倒壊。
そんな衝撃的な出来事を目の当たりにしつつも、幸い丸三老舗の工場や店舗のあった地域で停電はほぼ無く、ガスもプロパンガスなのですぐに使えました。
水道は数日間使えませんでしたが、工場に関しては井戸水も併用していたので、ライフラインはほぼ担保された状況で、生活面ではそれほどキツい思いはせずに済みました。
会社としても、店舗や工場の一部が傾いたり外壁に亀裂が入ったり、機械類が倒れたりということはありましたが、営業のための致命的な損壊もなく、3日後くらいから徐々に営業も始めることが。
と、まぁ、震災当日の体験談はこのくらいにして、この記事の本題。震災後1年ほどの間に丸三老舗の中で巻き起こった怒涛の出来事を列挙します。
①グループ補助金という国の制度を活用して補助金を受け修繕費を調達。先般の商店街活性化コンペなども含め、補助金活用の重要性が身に染みる。
ぶっちゃけ、丸三老舗の経営を継いでからしばらくは日々店を潰さないために必死で外に目を向けることもなかったので、あまり地元の会合や集まりには参加せず、目先のことで右往左往してました。
少しずつ余裕ができてきて、地元で活動してるグループや団体、個人とご縁ができ、その中で震災前に補助金を受け取れたのはすごく大きな経験だったなと。
この経験のおかげで、震災後の補助金の情報も自ら積極的に集め、グループ補助金というものが出てきたときにも「使えるんじゃね?」と直感。
名前の通り複数社を取りまとめてグループとして申請する補助金で、グループに入ったほかの事業者さんたちは補助金活用の経験もほぼ無かったため、若旦那がイニシアチブをとり、他のグループよりすんなり認定を受けられました。
補助金ありきで事業を考えるのは悪手ですが、使えるものはどんどん使いましょう(笑)
②グループ補助金を使った事業者向けに、東日本大震災事業者再生支援機構という国の機関が営業(?)をかけてきて、震災前の旧債務を圧縮し10年間棚上げし、15年の間に企業を再建するというスキームを提案される。徐々に収支は改善していたとはいえ、自分がこさえたわけでもない借金に縛られる事にうんざりしていた若旦那はすぐに飛びつく。
これが、当時は大きな福音であり、(今に続く大きな制約にもなっているわけですが…)正直当時はめちゃくちゃ助かりました。
何しろ億単位で残ってた旧債務が数分の一に圧縮されて一気に数千万円まで減り、10年間は格安の利払いのみ。さらには新規の融資枠までもらえるというまさに魔法のようなスキーム。
元々経常利益は良い感じに叩き出せていた丸三老舗の経営状態は、これを機に一気に改善します。
しかしながら、契約の関係で若旦那自身の決裁権は著しく制限され、まず100万円単位の出費は機構側で稟議を通す必要があり、また、2012年に作成した再建計画に基づかない出費や経営判断については、かなり慎重に判断されます。
若旦那自身の判断による機動的な投資や経営方針の転換はほぼ不可能な状態で、ある意味、経営者としては両手両足を縛られている状況。
もちろん、会社として存続のピンチが訪れた時には、国の機関がケツモチにいて金融機関にもプレッシャーかけてくれて助けてもらえる状況ではあるので、成長のためにチャレンジしたり、レバレッジをかけたりということはできませんが、「経営の継続」という視点では安心できるという見方もできます。
デジタル技術の発展により、ビジネスに関わるすべての動きが早まっている時代に、10年近く前に立てた計画に基づいて、限られた枠内でしか動けない仕組みにつき、チャレンジ/成長という意味では大きな制限がかけられ続けます。
が、例えば、地方の衰退産業なんかで、成長意欲のない年寄り経営者が、自分が引退するまで何とか食つなぐための仕組みとしては物凄く優秀なのではないでしょうか。
③そんな大変な時期に、店舗マネージャーを任せていた同級生が突然離職。
中学校時代から関係が続く、物凄く仲の良い親友とも言える相手だったわけですが、震災後の何かと大変な時期に、突如袂を分かつことに…。
まぁ、全幅の信頼を置いていた相手だし、実際になかなか大変な時期に2年ほど二人三脚で頑張ってきた実績もあるわけで、自分の夢や目標のために別の道に…とかいう理由だったら気持ちよく送り出せたんだけど、嫌になったから辞めるという感じだったんで、いまだに何だかなぁ…と。
彼には彼なりの理由もあったのかもしれないけれど、大変な時にこそ人は去っていく…という事を学びました。信用はしても、無条件で信頼したり、期待しすぎると傷は大きくなる。
④震災直後しばらくはガッツリ売り上げが落ちるも、一か月ほど経ってから突如巻き起こる復興特需!毎月のように過去最高の伸び率をたたき出す。
これは完全に予想外でした。3月の書き入れ時に震災でほとんど売上が立たず、毎年右肩上がりで来ていた売上に突如ブレーキがかかり、更に復旧だ何だでお金が出ていくばかりで連日連夜頭を悩ませていたのが噓のように、お菓子が売れまくりました(笑)
震災のあった2011年から翌年にかけ、前述の補助金だったり震災支援機構の再建スキームというビッグウェーブにも乗り、経常利益だけではなく財務状況全体も一気に改善。
マイナスを0に戻す、埋め戻しの為の後ろ向きな悩みではなく、0から1や10を目指す、いろいろなものを積み増す為の前向きな悩みの割合が増え、現在の丸三老舗の飛躍につながりました。
被災し、1年で一番の書き入れ時に営業できず、信頼していたスタッフも去り、本当に目の前が真っ暗だったというのに…。それがほんの1年足らずでこんな状況になるとは、人生は本当に何が起こるのか分からないもんだなと。(桃鉄でもそういう気持ちを忘れずにプレーしています。)
最後に余談ですが、2011年10月に待望の長男が誕生!
震災の起きた時は奥様のつわりが酷い時期で、柑橘系のゼリーしか食べられなかったので、毎日のように半径2~30㎞くらいの営業をしているコンビニやスーパーの情報をTwitterなどで集めてゼリーを求め歩いた記憶…。
ちょうど震災前日にガソリンを満タンにしておいたおかげで初動で後れを取らずに済みまして、車社会となる地方では、何かあったときのためにもガソリンは常に満タンにしておくのが吉ということを学びました。
そんな長男も、今や10歳…。時がたつのは早いものです…。
最後になりますが、丸三老舗をどん底のどん底からコツコツと立て直してきて、ようやく…という時期で未曽有の大災害に巻き込まれ、すべてがぶち壊しになったとも感じました。
自分自身、このタイミングで心折れる事があってもおかしくなかったはずですし、実際にそうなってしまった人も知っています。
ただ、実際には大きな災害で被災しても、心折れず前向きに頑張った結果、一寸先で大きなご褒美が待っていたわけで、人生というものは本当に自分自身の心持ちひとつで大きく変わるな…ということを実感した時期でもありました。
これからも、東日本大震災のような大災害に巻き込まれることもあるかもしれませんが、そんな想定外の荒波にも耐え、自分の会社を存続させ続ける責を負った経営者にとって必要なのは、
①柳のようにしなやかで折れない気持ち
(キャパ以上に負荷がかかったときは、それを真正面から受け止めずに受け流せる図太い精神力)
②少し先の出来事をイメージする想像力
(頑張るのは当然だけれども、誤った方向に頑張ってしまうと徒労感が凄いので、世の中の大きな方向性程度は掴めるように。インプット大事)
③情報収集&行動力
(どんなネガティブな状況でも、気持ちが落ち込んでても、打てる手は打ち続ける。経営者が諦めたらそこで試合終了…!)
であろうと。
これを見てる経営者の皆さん、お互い頑張りましょう(笑)
ということで、本日はこの辺で。次回以降は、丸三老舗の本格的な成長とこれからの目標などについて書いていきたいな~と!またお付き合い下さい!
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