はるかのエッセイ【カレーライス】
わたしは、物心ついた頃から異常なほどに心配性であった。
ぬいぐるみのように裸の状態で売られているものはウイルスの付着が心配で、ある程度の期間遊んでみて、人体に害が無いことが確認出来るまでは少し緊張した。
またある日は、スーパーでパックの紅茶が一パック三十九円で売られていた。値段に惹かれて、特段欲しくもない買い物をするタイプの母は、その紅茶をいくつか購入し、わたしにも与えてくれた。しかしそこで素直に喜べないのが心配性である。「○月◯日〇〇スーパーで毒入り紅茶を安く売りだし、数十名の買い物客が病院に搬送されました。」などと、架空のニュース番組を脳内で再生し、ニュースに自分の名が載って、幼稚園や町内で有名人になる恥ずかしさと大きな不安を抱きながらも、気を使って最後まで完食することはよくある話であった。
非常に生きづらい。こりゃまた災難なことに、変わった味のハーブティーで、余計にわたしを緊張させた。人間は単純なもので、想像で体調をいくらでも操れるのである。非常にムカムカし、吐き出した方が良いのでは?しかし自分だけ助かるわけにはいかない。などと、紅茶ひとつでこんなに苦しめられた。想像力は程々が良いと思う。
しかし今こうしてエッセイになっているのであれば、捨てたものでは無いかもしれない。
ある夏の日、その日は友人と、近所の小さな夏祭りに出かけることになっていた。滅多に着ない着物に腕を通すことに、少しワクワクしていた。そこにもホコリの心配が付き纏ったが、わざわざ口に出していてはそんなことしか喋らなくなるであろうし、人に心配を打ち明ける子供ではなかった。
夜になり、夏祭り会場は活気に満ちていた。数メートル歩くたびに匂いが変わって、夜子供だけで出歩いていることにロマンを感じていた。いい感じにお腹も空いてきた。友人もちょうどお腹が空いたようで、何か食べることになった。
仲のいい人は、たいていお腹のキャパ事情も似ていると言うのは持論である。
色々見て周り、食事は焼きそばか、カレーライスの二択になった。
こんなときだって、食べたさで選ぶことができない非常に可哀想なわたしは、屋台主の顔を観察し、どちらが毒を盛りそうな顔つきであるか、ニュースの時に見るパトカーに乗せられるときのシーンが似合う方はどちらかと見極める必要があった。観察の結果、カレーライスに毒が盛られているであろうと言うことになった。ただ顔の皺が多かっただけなのに、これは沢山の人を殺めたな、などと勝手に無罪の罪を着せられる可哀想なカレー屋さんである。
これは焼きそばを食べた方が安全であろうと考察したわたしは、友人に焼きそばを食べようと促した。
しかし、友人は既にカレーライスの口になっていた。大変だ。カレーライスはこぼしたら茶色いシミになるぞなどと咄嗟に考え出した理由をつけてみたりしたが無駄であった。焼きそばもこぼしたら茶色いシミになることは今書きながら気がついた。テレビショッピングに出たくとも書類選考落ちであろうトーク力のわたしには、人の食欲をねじ曲げることはできなかった。
わたしの不安とはよそに、猛毒カレーライスはすでに友人の手に渡ってしまっていた。一緒に犠牲になることも考えたが、ここまで犯人の顔を観察したのは自分しかいないと思ったわたしは、友人に心の中で何度も謝りながら、焼きそばを購入した。会場内にある大きな木の下に座って食べることになった。あたりで、今に泡を吹き出すであろう人々が猛毒カレーライスを黙々と口に運んでいる様子は、地獄絵図であった。焼きそばを味わうことも忘れ、あたり一面に人々が一斉に倒れ出す光景ばかり想像した。
わたしのニュース番組は依然として終わることはなく、時々生活の邪魔をしてくる。
因みにその友人は、現在わたしよりも健やかに生活している。