千羽鶴の祈り
災害があるたび、SNS上で被災地へ千羽鶴を送ることについての批判が起こるのを見て思い出すことがある。
中学生の頃、小学校から一緒だったクラスメイトが病気になり、母に「千羽鶴でも折ってあげたら」と言われて「千羽鶴が何の役に立つの」と機嫌悪く言い返したことがあった。
というのも、当時部活で先輩たちの引退試合があり、同学年の部員が「千羽鶴を折ろう」と言い出したことに反発していたからだ。
まず同学年にも試合に出るメンバーはいるし、千羽鶴を折るよりも練習した方がいいと思った。が、それを言っても千羽鶴の提案者は「は?知んねーし」と聞く耳を持たず、結局折っているようだった。
それ以降、部活内での雰囲気が良くなく、ピリピリしているところに、そのきっかけである千羽鶴を「折れ」と母に言われ、カッと頭に血が上ったのだった。
友人の入院は検査入院だと聞かされていた。
また戻ってきて、一緒に机を並べられるものと思っていた。
ほどなくして、友人は亡くなった。
小児がんだった。
友人の家に挨拶に行った。
友人のお母様は、まだ動けるうちに最後に家族で旅行にでも、と思い、どこに行きたいか聞いたら友人が「学校」と答えたこと、術後、発話が難しくなっていたときの授業中に、隣の席の私が小声で教えたりしていたのを嬉しそうに話していたこと、ぽつぽつとたくさんのことを話してくれた。
なんで出来ることを全部やってあげなかったんだろう、千羽鶴くらい折ってあげたらよかった。後悔と悲しさとでわあわあ泣いた。
今では「そんなことないよ、やるべきこと、できることを十分にやったよ」と思えるのだけど、当時は「何かやり残したことがあるせいで彼の死がこんなに辛いんだ」と感じた。
そういう、後悔したくないから何かせずにはいられない、という気持ちを落ち着かせるのに十分な「祈りらしさ」が最も感じられるのが、多くの人にとっては千羽鶴なのだろうと思う。
実用よりも祈りの方が、自分の気持ちの重さを載せるのに十分なものを、自分の力で出すことができるのではないか。
自分のできる募金額なんて高が知れている、だけど祈りと折る作業と折り終えたものの質量とは自分の思いに釣り合う。
懐の痛む金額を募金すると、懐が痛むと感じる自分自身に嫌な気持ちになる。
そういうものにとらわれずに痛ましく思う気持ちを解消できるのが、千羽鶴なのかもしれない。
話は変わるが、私が小学生の頃、検査入院で五日間入院したとき、担任が集めた「がんばってください」と書かれたクラス全員分の手紙が束で届いたことがある。
その時は、ありがたいという気持ちよりも、親しくもないクラスメイトのためにこんなものを書かされたと、私のことを嫌いになるのでは、と空虚に思った。 おそらくその経験から、千羽鶴にもいいイメージがなく、「千羽鶴より実用を」という信念が生まれたのだと思う。
しかし、実用では解消しきれない、まじないのようなものが必要なことが世の中にはたくさんあることも知っている。だから完全に否定したりけなしたりするのも良くないとは思いつつ、いま必要なものがはっきりしている被災地に対しては、やはり実用を、と思う。