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マリーが生きた時代 2

 貴族たちは肌を白く見せるために鉛白と呼ばれる鉛(なまり)を原料としたおしろいを用いた。これを塗ると確かにカバー力も強く 肌が均一に白くなるのだが、その引き換えとして重金属による重篤な健康被害をもたらした。鉛中毒である。鉛は簡単に経皮吸収され、神経系や肝臓疾患、脱毛、また歯や歯茎にも悪影響を及ぼす。貴族たちはそれをわかっていながらも使い続けた。健康を引き換えにしてでも白い肌を手に入れたかったのだ。ハゲるしひどい口臭がセットで付いてくるにもかかわらず・・・。

【モスリンのシュミーズ・ドレスを着た
王妃マリー・アントワネット】
ヴィジェ・ルブラン 制作年:1783年

 マリーが生きた時代はヨーロッパ列強による 黒人奴隷の三角貿易が全盛期だったのだが、このことについては別稿に譲ることとする。ただ『白い肌至上主義』のフランス貴族たちが、初めてアフリカの原住民を見た時に、どんな評価をしたのかは容易に想像がつく。今に至る人種差別問題は、西ヨーロッパの一部白人の蛮行により始まったものだ。

 またこの時代の風俗を語るに欠かせないこととして、本稿の直前にアップした『1』同様、引き続き臭気漂う話なのだが、当時のパリにおける人々の排泄事情を語ってみる。当時のフランスではトイレというものの考え方が我が日本とは根本的に違った。放尿は所構わずと表現してもいい位の状況だったから、今では考えられないが 男は壁に向かって立ちションしたし、老若男女を問わず通常はおまるに用を足し、外に捨てていたのだ。肖像画になっているような貴族のご婦人方であってもそれは変わらなかった。違うのは自分ではなく使用人がその処理をすることだけだ。

 道端に糞尿を捨てるという習慣は日本にはないのだが、『花の都パリ』ではそれが普通だった。今の感覚で見ればエラいことだ。往来が糞尿で溢れているというのはどんな感じなのかはわからないが、きっと高価な誂えのオートクチュールを身につけたハイソな貴族が恐れていたのは、道のウ◯コを踏んでしまうことだったのではないか。しかしわかってはいるものの ドエラいことになっているエリアもあっただろうし、下ばかり見て歩いているわけではないからスレスレの場面もあっただろうし、下手すりゃちょっとつまづくこともあったはずだ。細心の注意を払っていたにもかかわらず、ちょっと踏んづけてしまったそんな時、被害を最小にするにはヒールを高くするしかない。というわけで当時の貴族たちの靴は男も女もハイヒールだったという訳だ。面白いことに髪型や服装は現代とは全く違うのに、靴だけは今でも通用するようなデザインのものが多い。下の画像はフランス ブルボン王朝の超有名人、世界にその名を轟かせた太陽王=ルイ14世だが、ちゃんとハイヒールを履いているのがわかる。

【ルイ十四世の肖像】
イアサント・リゴー 制作年:1701年
(ルイ14世は、マリー姫の旦那である
ルイ16世の ヒィヒィヒィ爺さんにあたる)

 マリーアントワネットがパリの中心部から20km以上離れたベルサイユに引っ越した理由の一つが、パリの街に漂う悪臭だったともいわれているが、新しい住まいにも毎夜のようにワンサカ客人が訪れた。当然のごとく 不夜城ベルサイユは、時を置かず パリの街にも全く引けを取らない 大小入り混じった便臭が香り高く漂う宮殿になった。

 欧米とは違い、当時から日本人の衛生観念は世界一だったし 今でもそうであると断言できる。その理由の一つが水資源の豊富さなのかなぁと私は思っている。ヨーロッパに行くとわかるが、彼の地では水の価値が日本とは比較にならないほど高い。レストランやバールで注文するドリンクが『水』ということが成り立つことに 最初は本当に驚いたものだ。ホテルでもシャワーからお湯が出ないなんてことは、特別なことではない。ついでに言えば料理番組を見ても、調理をする人が日本人とは比較にならないほど水を使わない。『あっその手はナプキンで拭うだけじゃなく水で洗おうぜ!』と思う場面がちょいちょいあるなぁと感じてしまうのだ。

 裁縫師の日記によると、身長が154cm、ウエストは58~59cm、バストは109cmだったというマリー姫だが、残念ながら肖像画を見ても到底そんなプロポーションには見えない。当時理想のスタイルは、巨乳・巨尻でその2つが同サイズであり、ウエストはより細く、あくまで細く が条件だったため、なんと自分の両手の親指と中指で作った輪の中にウエストが収まることこそ女性たちの夢だったという。下の方の肋骨の内 何本かを外科手術で切除したという記録さえ残っているのだが、コイツらマジでヤバいと思うのは私だけだろうか。



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