仏談 -赦して!閻魔さま!1-
仏教の考えに従えば、人はその生涯を閉じた直後から自分の肉体を離れ、毎週一度ずつ行われる裁判を7回も受けないといけない。7週後には次に生きる世界が決められるから相当忙しい。遺族や知人たちがいかほど心を込めて法要をしているかということが、各裁判の判決に響くから、そのあたりはちゃんとやらないとダメなんだろうが、我が家も含め死後毎週の法要をしている人の話は聞いたことがない。最近では初七日は葬式と一緒にやってしまい、後は四十九日の法要まで何もないというパターンがほとんどじゃないだろうか? これも時代の流れなのだろう。
さて今回は死んだ人が冥界に向かう時の裁判の様子を知ったかぶりしてみたい。『お前見てきたのか?』と言われそうだが、もちろんそんなわけはない。亜流、異説、捏造、改造にあふれているのが仏教という宗教の特徴だから、宗派によっても時代によっても、また語り手個人によっても色んなパターンがあるのが事実なのだが、ここはあくまで私の好みの説を採用し語ってみようと思う。でも断っておくが浄土宗や浄土真宗などの阿弥陀如来を奉る宗派においては、こんなプロセスはない。なぜならそのカテゴリーの宗派では人が亡くなると、直後に枕元まで迎えに来た阿弥陀様が、さらにノータイムで極楽浄土まで寄り道せずに連れて行ってくれるんだから、今から書くプロセスはその概念さえないってことなのだ。それではいってみよう!
◍忌日から初七日まで
人の命が尽きた時、誰もが死天山(死出の山)という山に登らないといけない。見えない力に操られてる訳だから、登る理由など考えもせずに。私はある寺で坊さんに聞いたのだが、この時死者はわずか10㎝くらいの身長になるのだという。そんな体で峻険な山を越えるのだ。その坊さん曰く、死出の登山は線香の煙だけを食べて歩くのだから、家の者は絶対線香は絶やしてはいけないのだと。最近のお通夜では蚊取り線香みたいに渦巻になって一晩中火が消えない線香も見かけるが、亡くなった人は手抜きだと言って怒ってないかなぁと心配になる。家族を失くした家族の悲しみは深く辛いのは当たり前だけど、葬儀を終えるまでの数日というものは、精神的にも肉体的にも本当に大変だから、故人は家族に対して『手ェ抜きやがって!』とは思わないで、許してあげてほしい。
さて何日もかけてやっとの思いで死天山を越えると、死者は最初の法廷にたどり着く。
◍1週間後(初七日) 裁判官:秦広王(しんこうおう)
生前に殺生を犯したかを調べる初めての審理なのだが、誰が見たのかここでは書類審査しかしないらしい。きっと殺生をしない人などいないから、全員が同じカテゴリーだからだろうか。コロナで大騒ぎしている私たちは、アルコールで多くの生命体の命を毎日奪っていることになるんだろうなぁ。
この裁判の後に三途の川を渡ることになるのだが、三途の川は3つの途(道•方法)があるから三途といい、どのルートで向こう岸に渡るかはここの裁判の結果で決まるという。生前善行を重ねた人はまばゆいばかりにキラキラ輝いた橋を歩いて渡り、ちょっとだけ悪事を働いていた人(ここが一番多いのかな?)は浅瀬を、悪人は激流で大きな石がゴロンゴロン流れてくるような深いところを向こう岸まで渡らなきゃいけない。『私泳げないので、できましたら橋で•••』などということが通用するはずはないから、この世では悪事には手を染めない方がいい。また三途の川のほとりには懸衣翁(けんえおう)と奪衣婆(だつえば)というジジィとババァがいる。死者の着ているものを剥ぎ取って木にかけてしまうこの2人、服をかけた木のしなり具合で生前の罪を計り、この後の裁判官に報告するというではないか。 《 続く 》