見出し画像

靖国の桜

 昨年暮れ、母の3回忌で兄宅に泊まりがけで行った。法要の翌日、一度は息子を連れて今の日本の礎を作った方々に手を合わせに行きたいと思っていた、また息子自身も念願であった靖国神社を訪れることが叶った。私自身も久しぶりの参拝となった。

 昨年は初夏から旧海軍の航空基地(跡)と、その記念館に何度も足を運んだ年だったが、その締めくくりが靖国神社とは話が出来過ぎている。神社敷地内にある遊就館(資料館)に訪れるのは幾度目かとなったが、1階中央部分の大きな空間に展示している旧海軍の特攻兵器にはやはり胸が詰まるし、息子も感じ入っていたように見えた。

 およそ全ての生きとし生けるものにおいて、何より大切であろう『命』というものの重さを、人は精神力で変えられるものらしい。もしそうじゃないと言うならば、爆弾や魚雷に操縦席を設けようなどという考えにはなるまい。冒頭の画像は、その爆弾に操縦席と翼を付けた動力のないグライダー、いわゆる人間爆弾である『桜花』である。滑空し始めたら帰還も不時着もできないので、母機から離れたら最後 操縦者の命が助かる可能性はない。

 同じく魚雷の後部に設けられた狭い操縦席において、足を前に出した体制で、狭い鉄の筒の中で魚雷を操縦した兵の精神状態とはどのようなものだったのだろう。『回天』と名付けられた一人乗りの人間魚雷の見本は、そこを訪れた人に物言わず、しかし雄弁に歴史を伝え続けている。

 遊就館のすぐ横には桜が植えられている。真冬のことゆえもちろん花は無いが、先の大戦においては生きて再び還れないことがわかっている出撃に臨み、この花の下でまた会おうと誓い合った桜である。そう思うとそこに立っているだけで涙が出てくる。
 靖国の桜に集う英霊たちは、今の日本を見て何というのだろう。命を賭して守りたかった国になっているのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?