百の言葉に勝る教え
小学校3,4年の頃、母の財布から金を盗んだことがある。狙いはタンスの一番上の引き出しの中だった。ある日母が近所に出かけた隙に、ドキドキしながら開いた財布には1枚抜き取るつもりだった千円札はなく、札が入るスペースには1万円札が1枚だけ入っていた。私は随分ためらったが、震える手でその1枚を盗ってしまった。
自分の机の引き出しに隠した1万円札。もう50年以上前の話である。貨幣価値としては軽く現在の3倍以上あったはずだ。決して裕福とはいえない我が家にとっては冗談では済まない大金である。私は自分がやったことながら 落ち着かずに机の前でソワソワしていたのだが、そこに母は用事を済ませて帰ってきた。
入り用があったのだろうか、帰るやいなや母がタンスを開ける音がする。すると『あれ?』と言いながら しきりに引き出しや棚を開けたり閉めたりしている気配がする。『おかしい』『無いぞ』『何処にしまったんだ?』と呟きながらゴソゴソと部屋中捜索している母の気配を 隣の部屋で全身に感じている私。もはや心臓は張り裂けそうである。
母がトイレに行った。私は『今だ』と思い、隠した1万円札を急いで取り出してタンスの前の床に無造作に置いた。しかめっ面でトイレから戻った母は、次の瞬間あっと言って歩を止めた。すかさず私は『落ちてるわー』と見えすいた嘘をついた。床の上で聖徳太子が無表情な顔を上に向けていた。
こっぴどく怒られると思ったのに、母は黙って私のついた嘘を拾って財布に収めると ゆっくり私の方に顔を向けた。じっと私を見る母の目に みるみる涙が溜まっていく。何も言えなかった私は 母の頬に一筋つたった その涙を見て、もう二度とこんなことはするまいと子供心に誓ったのだった。
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私が尊敬するビジネスマンの一人に佐々木常夫さんという、東レ経営研究所社長を経て現在は独立されておられる方がいる。自閉症のご長男とうつ病に加え肝臓病を患う奥様を抱え、育児、家事、介護に追いかけられる状況の中で、破綻寸前企業の立て直しや数々の偉業を成し遂げたスーパーマンである。私はおこがましくも勝手に我が身の境遇と重なるものを感じ、氏を崇拝している。その佐々木常夫さんが幼い頃に体験された、ご自身とお母様との逸話を 勝手ながらここで紹介したい。
佐々木常夫さんが幼い日、果物屋からリンゴを盗って食べたことがあった。それを知ったお母様は激怒し、常夫少年の手を引いて その果物屋に行って、我が子を土下座して謝らせた帰り道、地域にあったプールを指さして『今度人のものに手を出したら、お母さんはあなたと一緒にこのプールに沈みます』とおっしゃったという。
常夫少年は『もう絶対に人のものは盗まない』と心に刻んだとのことだが、きっとお母様は子供を育てることに対して生半可な気持ちではなかったのだろうと想像する。
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いつの頃からか親が我が子を叩いたりすることは虐待だと言われるようになり、親は子供の心を傷つけないように、必要以上に気をつかわねばならない時代になったように感じる。
私や常夫少年は 純粋な子供の心に痛みを伴うほどのインパクトで、人の物を盗むのは 絶対ダメなことだと親に刻み込まれた。しつけをするということは 評論家が述べるような理論だけでは決して成し得ないものだと思うのだが、色々と難しくなったこの時代に生きる子供たちは 幸せなのかそれともそうではないのか、私は答えを持たない。