フッ切れる
しがみついていた物、手放したくない物。持ち続けていたそんな気持ちが、ある分岐点を境に『もういいか・・・』と思えてしまうことがある。達成できないことが明らかになった目標。目指すことに価値が見えなくなった目的。
人は皆、今存在している自分は、諦めと妥協の結果なのかもしれない。・・・なぁんて ここで真面目に語るつもりはない(笑)
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《私は髪色(白髪)にはフッ切れている》
子供時代から剛毛、また多毛で通してきたが、同時に若白髪体質でもあった。美容師になって以降は、それをどうするかという問題がいつもついて回った。美容師としての知識を活かし、ここ10年ほどは、酸性の着色料やマニキュアで誤魔化してきた(昔からある『ヘアダイ』と呼ばれる染毛剤は 毛髪内部にまで染料を反応させるアルカリ性の酸化染毛剤である。毛髪や頭皮にもダメージがあるそれは避けたかったので・・・)。ところが数ヶ月前からは『白髪を隠す』という行為をやめている。
ある日何気なく鏡を見た私は(この期に及んで白髪を隠す必要があるのか? もういいんじゃないか?)とふと思った。私は何にこだわってるんだろう?こんなことに必死にすがりつく姿はなんとなくカッコワリィなと、自虐するに至った訳だ。
しかし面白いもので、一旦その価値(白髪を見えないようにしたい)から解放されたら、今度は逆に真っ白にしたいし黄ばみも消したい。しかし美容サロンでホワイトブリーチなどという施術をやって白くするのは嫌だから、今はカラーワックスに頼っている。白のカラーワックスに微量の紫を混ぜて 反対色である黄味を消す作業を洗面台で行うのが朝の日課になっている。
ここにきて思う。こんなことを語れるのも毛があっての話だと。きっと遠くない将来、毛髪については 色ではなく毛そのものをフッ切る日が来るのだろう。しかし世の中には間違いなくその段階に来てるのに『毛のある自分』にしがみついてしまっている人がいる。サイド部分の髪を一列長く伸ばし、少なくなった頭頂を その一列の髪でカバーしようとする、俗に『バーコード』と呼ばれるオキテ破りの必殺技は、我が国独自の文化である。
《私は酒の付き合いにはフッ切れている》
自慢じゃないが私はこれについては、早い時期から自負している。コロナに関係なく、飲み会の類いは昔から今に至るまで基本 遠慮してきた。それでも若い頃は人並みに付き合いをしていた時期もあったが、30代も後半に差し掛かった頃には完全に自分の中で、酒席での付き合いは捨てた気がする。飲みに誘われた際、何かと用事をでっち上げて断るのではなく、ただただ参加しないという意思を貫いた。おかげで私は酒席には顔を出さない男として、周囲の誰もが知ることになった。
今の職場においても 全教職員対象の研修会の後に実施する打ち上げや、年度末にあるような公的なもの以外、誰かと帰りに寄り道をしたりすることは皆無である。付き合いの悪い(付き合わない)奴だと言われているだろうが、この姿勢を崩す気は今のところない。
その他 酒の付き合いとは別の話だが、同じ趣味を持つ仲間や友人を作っておかないと 定年になってから淋しいよ とはよく聞く言葉だが、本当にそうなのか? と疑っている。誰かと一緒にいないと淋しいという気持ちが強い人たちは、『何をやるか』より『誰とやるか』が優先する人種なんだろう(私は間違いなく『何を』派である)。嫌がられることを躊躇せずに言うなら、あなた方は、一人の時間を有意義に使うことができないんじゃないの? と思ってしまう。きっと私はヘンコツで嫌なヤツだ(笑) でも少なくとも表面だけの付き合いなどする気はない。
《私は『地味』や『無難』という価値からフッ切れている》
ごく最近、私が高校時代 同級だったジジババが、誰かの呼びかけでライングループを作り、出かけたり親睦会をしたりと活発な活動を展開している(私もそのグループのメンバーだが、例によってその集まりに参加することはほぼない)。ライングループには入っている故、彼らが手を取り合って出かけた先でのスナップや、飲み会での集合写真なんかが自動的に目に入ってくる。そこで私は思うのだ。皆さん(特に男連中)揃いも揃って、なんて地味なんだろうと。正に地味の国から地味を広めにきたかのようなのである。歳をとると身につけるものに関しては、地味とか無難とかというものを好むようになるんだろうか。
この年齢に達し改めて気づいたことがある。私は医師から余命宣告はされていない。また自らの人生の時計を自分で止めるつもりもない。要するに私は死に方を選べないのだ。そうなると生き方の方しか選べないではないか。残りの人生は長いとはいえないから、きっともうやりたいことをやる時間しか残されてはいないのである。いや、なにも原色バリバリでメイクをしてブッ飛んだカッコをしたいというわけではなく、自分がいいなと思ったら『派手だから』とか『年甲斐もなく』というブレーキはかけずにいたいだけだ。恥ずかしいとかカッコ悪いといった感情より、やってみようぜ!と思いたい。明らかにここ数年で感じが変わった私の姿を見ている妻は、笑いはするものの否定はしない(理解してくれるだけ有難い)。
やってみたい、行ってみたい、食べてみたい・・・。後いくらも生きないのだ。体が動いている内になんでもしなきゃ死ぬ時に後悔するじゃないの!
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ワァワァゆうてますが、私はウラの無いエエ人やと自分では思っとります(笑)