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国に命を捧げること 1

 請求していた大叔父の戦死に関わる記録が厚生労働省からようやく到着したのは、戦後70年以上が経った春だった。申請に必要だった、私と母そして曽祖父の戸籍関連の謄本や住民票などを取り、お国や役所とやりとりをし始めてから2ヶ月程も経った頃だったか。台湾から飛び立ち、爆撃機の機上で異国の地に散華した一族の誇り(と私は思っている)の足取りをたどる工程の最後は、彼が所属していた鹿児島にある鹿屋海軍航空隊の基地にまで到った。
 
 公表されている戦史と厚労省から届いた旧海軍の記録を整理してみると、大叔父は昭和12年、第二次上海事変勃発直後の中国戦線において、中攻と呼ばれた九六式陸上攻撃機で当時日本統治だった台湾の飛行場から、中国の杭州に長駆爆撃行を仕掛け、世界をあっと驚かせた いわゆる「渡洋爆撃」を行った搭乗員だった。いわばその時代のヒーローともいえる人物だったのだ。しかしその機体は、爆撃実行後に迎撃の敵戦闘機と交戦の末に撃墜されていたのである。

 文字で書くとこのように数行で終わるような最期ではあるが、現実には五島列島の自宅(私の生家でもある)には家族の他、結婚間もない妻とそのお腹にはまだ見ぬ我が子をこの世に残し、26歳の若さで死んでゆかねばならなかったのである。大叔父は様々な無念を飲み込んでそれでも報国に殉じたのだが、もし私がその立場ならどうしていただろうか。私から見ると二世代遡った人物ながら、私自身の家族を重ね合わせてしまい切なくなる。

 私が調べた結果、大叔父の機を撃墜したのは当時戦闘機乗りとして中国国内で名をはせた 高志航(こうしこう)、もしくは後に中国空軍公認の最高撃墜数を誇った 柳哲生(りゅうてつせい)であったようだ。2人ともウィキペディアにその名が載るほど有名なパイロットであるが(大叔父の名も掲載されている)、大叔父の仇である2人の顔をPCで今見ても特別な感慨はない。ましてや恨みなど感じない。逆から見れば、どこに爆弾を落とせば効果が大きいのかを測定し、爆撃手と連携を取るのが軍人としての偵察員の役目である。どちらが良いとか悪いという問題などあるはずもない。戦争というのはそういうものだと思う。
 
 大叔父の足跡を辿ることは、私の中にある思いが生まれることに繋がった。それはマグマのように熱く、体内で膨らんで毛穴から噴き出す勢いであった。私は大叔父が所属していた航空隊のある鹿屋に、旧海軍の基地に、死ぬまでにどうしても行かねばならない。そして大叔父だけではなく、当時の若鷲たちに心で触れ、我が身に与えられた境遇を感謝すると共に尊い英霊にお礼が言いたい。そうしなければこの話に幕を下ろせないと思ったのである。

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