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かゆいところはございませんか?

 標題のワードは、恐らく半世紀以上の長きにわたり美容師が美容室(法的には美容所)のシャンプー台(法的には洗髪台 )で来店客に問いかけてきた定型句である。しかしこの『痒い所はございませんか?』は多くの人の頭が痒かった時代の遺物だと思う。令和の世にそんなに頭が痒い人がいるのだろうかという疑問をよそに、いまだに多くの理美容室でこのやりとりが連綿と繰り返されている事実に、一人の美容師として大いに違和感を覚える。

 私がまだ美容学校に通っていた頃、『美容理論』の教科書にはシャンプーの回数は週に1回程度と確かに書いてあった。それだけしか洗わなきゃそりゃ痒かろうと当時も思ったものだが、これには事情がある。我が国の美容文化史を紐解いてみると、大正時代になってようやく日本髪が廃れ『束髪』という簡素化されたまとめ髪(磯野フネさんもやってる)に変わっていく。昭和に入っても多くの主婦は着物を着て髪をまとめたフネさんスタイルだったのだ。

 元々は昭和22年に施行された理容師法という法律の一部でしかなかった美容についての決まり事が、初めて独立して法制化されたのは10年後の昭和32年である。よって初めて編集された教科書にも、戦後間もない庶民の風俗が反映されているのである。

 古くからの風習で女性たちは髪を整える姿(明治時代末期頃までは同様にお歯黒も )を夫に見せないようにしたというから、結婚すると女性は夫がまだ寝ている間に(歯を染めたり)髪を整えることに加え、朝食の用意も済ましておかねばならなかったから大変だった訳だ。髪をきれいにまとめてピンを打つのは手間がかかる。できれば一度作ったスタイルは数日は壊したくなかったから、シャンプーの回数が少なかったとも言えるのだ。

 ところでその男性の名を冠したヘアケア商品が世に出回っているから知らない人は少ないだろうが、ピンを使わずブロードライで仕上げる画期的なスタイルを世に広めたのはイギリスの著名な美容師であるヴィダル・サッスーン氏だ。サッスーン・カットは、華々しいデビューから60年経った今でも美容師が『基礎』として習うスタイルである。私も彼が考えた基本を習ったが、今の若者も同じような理論でカット技術に向き合っている。あらゆる革新的なアイデアには凡庸な人たちの反発がつきものだが、映画やメディアを席巻しながら、精力的に新しいスタイルを発表し続ける彼を評して、『どんな斬新なヘアスタイルを作っても、既にヴィダルがやっている」とまで言わしめた人物だ。正に圧倒的だった訳だ。とにもかくにも彼のお陰で女性の髪形は簡単になり、我が国においても彼は女性の頭からピンを取り去った恩人ともいえるし、それは同時に『手軽にシャンプーできるようになった』ということでもある。

 さて本稿のテーマである『痒い所はございませんか?』と言う美容師の問いかけには、ほぼ全ての人が『はい』あるいは『ありません』と言ってくれるものだ。それでも『◯◯のあたりがちょっと・・』と言われることも たまぁにあるが、そんな時は言われた部位をガシガシ洗う。その結果『よろしいですか?』『はい』で99.9%は片付く。しかし私がインターンの頃、お水風の中年女性の頭を洗った時にこんなやりとりが実際あった。

 お水『てっぺんあたりがちょっと・・』、
  私 ➡ ガシガシ洗う。『よろしいですか?』
 お水『耳の後ろが・・』、
  私 ➡ ガシガシ洗う。『よろしいですか?』
 お水『前髪んところが・・』、
  私 ➡ ガシガシ洗う。『よろしいですか?』
 お水『う〜ん・・・全部』
  私 ➡(シバイたろかぃ! )

 同僚とのシャンプーのレッスン中に、痒いところを訊かれて答える際、ふざけて『背中』と言ったり、コンディショナーを流し終える際に『気持ち悪い所は無いですか?』と訊かれて『お前の顔』と答えるのは、この世界に生きる者なら誰もが経験したであろう美容師あるあるである。

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