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障害考

 身体と精神、2つの障害を持つ妻と一緒に暮らしている。そのせいで同じような境遇の人と知り合うことも多い。そんな方々の身の上を聞くと、この世には実に様々な状況の人が生きてるんだなぁとしみじみ思う。それぞれの人がそれぞれのハードルを越えるために、またその日1日を無事過ごすために他人にはわからない闘いをしている。以前『人は見た目が9割』という本が100万部以上売れるベストセラーになったが、ことビジネスに関すること以外では全くそんなことはない。逆に『人は見た目では絶対わからない』が真実を表していると思う。

 こんなにも辛いのにやっぱり生きていなきゃいけないのと、目に涙を浮かべた妻にこれまで何度か訊かれたことがある。この世の中には失いたくない命なのに病気でそれが叶わない人がいる。その人たちに自分の命をあげたいのだと。そんな時には妻を静かに抱きしめることしかできない。自己肯定感を失った人にとって、あらゆる慰めの言葉は解決にはならない。『死んだ気になればなんでもできる』など、健康な人が健康な頭で考えただけの口笛のような『音』であり意味などない。

 ところで障害を持って生まれてきた子供は当初自分に障害があることをわかっていない。小さい頃は誰にとっても世の中は『できない』ことばかりだからだ。トライしたことが上手くいかなかったとしても『みんなはできるのに・・・』という周囲と比較する考えそのものが浮かばない。癇癪を起こしたりするのはそんなことがわかり始めてからだ。私が接した経験では身体障害を持つ子供の多くは、少し大きくなると独特の達観したような淋しいあきらめを身につけていることが多い。それはきっとそれまでに嫌というほど受けてきた周囲からの憐憫と特別扱いによるものだと思う。きっと彼らにとって『ああ、またか』という思いを持つことが日常なのだと思う。映画『ジョゼと虎と魚たち(実写版)』の池脇千鶴さんは、そのあたりを痛いほどグリグリえぐった。彼女以外にあの映画の役を演じられる人はいないと思う。フィクションであろうことはわかっているが、本当に観ていて辛く息が詰まった。

 『元気な体に産んであげられなくてゴメンね』。およそこの世で考えられるあらゆる謝罪の中でも、聞いていて最も辛くなるこんな言葉をこれまでに何度か聞いた。親側からみるとゴメンねとしか言いようがないのかもしれないが、本当にいたたまれない。他でもない私の妻も高校時分、自分の母親に対し子供として絶対口にしてはいけない言葉である『どうして元気な体に産んでくれなかった?』と言って母親に文句を言ったことがあると、何十年経った今でも後悔の沼から顔だけ出したように話す。その時義母は妻を見つめながら絶句したという。もし子供にそう言われたら、答える言葉や顔を持っている人はいるまい。

 しかし私は障害を持つ方や子供に対しては、とってつけたような優遇をせず、可能な限り健常者と変わりなく接するのが正しいと思っている。だから例えば『障害のある方が作った◯◯です!』といって、アート作品や音楽家なんかをことさらに賞賛することは差別だと思うし、ノーマライゼイションの精神とは障害者や要介護者を特別扱いすることではないはずだと思っている。

 不運はあったのかもしれないものの、少なくとも私は幸せだと思える。そう思えるようになるまでには少し時間はかかったが、もし妻に生まれつきの障害がなかったら・・・とか、精神疾患に苦しむことがなかったら・・・と考えた際、いいカッコ言うようだが今みたいな充実感はなかったと思えるのである。
 私は神様よりも仏様に手を合わせたい方なので、心から我が人生を仏様に感謝している。因果応報というが、私の前世で生きた人はきっと行いが良く、徳を積まれて生きていたに違いない。

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