コミュ障
とにかく対人能力に乏しい若者が増えてきており、最近も驚くようなことがあった。学校内に比較的おとなしい感じの女子生徒3人組がいた。普段は3人で一緒にいることが多かったのだが、選択科目授業では2人と1人にコース選択が分かれていた。カリキュラムの関係で授業終了がコース毎に少し違ったため、その日は2人で先にコンビニにお昼を買いに行ったのだった。よって遅れた1人(Aさんとする)が自分の教室に戻った時には、いつもの2人はいなかったのだ。聞くと2人で既に買い物に出たという。Aさんはその日から もう残りの2人と一緒にいることがなくなった。彼女は自分だけがのけ者にされたと思ったのだ。
教員も他の生徒たちも 可能な限り手は尽くしたが、そのことからしばらく経って、件のAさんは登校しなくなり、結局退学することになったのだった。
これに類することは割とあって、例えば忌引きで自分が休んだ日に友達が何人かでカラオケに行ったとしても、『私も行きたかったのに~!』と笑って終わる場合もあれば、自分が休みの日にあえて誘い合わせて行ったのだと曲解するパターンもある。
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ところで『否定をしない』ことが安心安全な環境の代名詞みたいに言われているが、私は大反対である。『否定しない』がどんどん育ってしまい、反対意見はおろか、『違う意見』さえ言えなくなっている若者。違う意見は初めに主張した人を否定してしまうのだと思っているのである。『安心安全』な環境とは、他者を否定しないということではない。否定的な意見でも言えるし聞いてもらえる環境だということだ。
『否定してはいけない』
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『否定しない』
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『否定されることに耐性がなくなる』
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『反対意見は人格をも否定されたと思う』
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『違う視点の意見を言わなくなる』
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『表面だけの 傷つきやすいガラスの関係』
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『破滅的なコミュニケーション能力』
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『他人を認められず打たれ弱い』
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やや強引かもしれないが、この件に関連していると思っている案件を一つ。世の中の『差別を防止する施策』には問題があると思っている。LGBTも、国籍・本籍も、親の職業もしかりだ。たとえば『国籍がわかると差別につながるから国籍は聞かないように!』というのが、今の施策でありその意向を受けた教育現場である。ついでに言えば、読んでいる新聞や愛読書、支持政党、尊敬する人なんかも訊いたらダメなのである。しかし『国籍がわからないようにしましょう』って、これは逆に差別ではないのか? このあたりは本当にいき過ぎていると感じる。
つい最近もワクチンを打ったか打っていないかを教室内で手をあげさせたことで、差別だ人権だとアホらしいニュースになってから、まだ日は経たない。何が『多様性を認めよう』だ。今の施策では多様性とは程遠い。目隠しをして実際どうなのかわからないということより、色んな考えや色んな人がいるのだから、それらを皆認めよう、という方向にはならんものか・・・。
今のままでは多様性を認めるなどという理想には程遠く、他人とのコミュニケーションもままならない人が世の中に溢れるんだろうと一人危惧する私である。
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