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『かも』族

 日本人は自分の感情をあまり直接的に表さないと言われる。それは相手が気を悪くしないようにという気づかいによるものだ。外国人から見ると不思議なことであり、明確な返事をしないで微笑んでいる日本人は時に不気味にさえ映ることもあるらしい。私事で申し訳ないが、私は昔から空気を読まない人だと言われてきた気がする。私の発した一言でその場の雰囲気が変わってしまったことも幾度となくあった。
 しかし自分自身、空気を『読めない』のではなく『読まない』のだと思っている。上手く言えないが、(正しいことではあるものの)それを言えば誰かのプライドを傷つけるかもしれないとか、(決まりでは確かにそうだけど)冷たい奴だと思われるかもしれない ということについて、予想できないのではなく、素直に口に出して、その結果マイナスに思われても構わないし、場が凍りついても仕方ない という感覚が近いかもしれない。そんな性分だから、はっきり言わない人を見るとまどろっこしく感じて仕方ない。
 特に、自分の意見は持っていたり、自分では『違うだろ!』と感じていたとしてもその場では言わず、その後守られたコミュニティの中でそのことに文句を言うタイプの人とは根本的に合わない(向こうもそうだろうが)。『本人に言えないなら誰にも言わない』。学生の時に私の叔父から教わったその言葉は、今でも人付き合いにおける教科書になっている(背いてしまい 恥ずかしくなることもあるが)。

 自分の思いをはっきり言わないのは美徳なのか。曖昧にその場を終える方が良いのか。京都人に対するステレオタイプに『本心を隠して表面では愛想のいいことを言う』というものがあるが、正に最近そんな価値観が日本中を支配しているように感じて戦慄する思いだ。

 はっきりモノを言わないつながりで、言葉の最後に『感じ』や『かも』をつける風潮も苦々しく思っている。例えば『課題が期日までに間に合わない感じですか?』や『◯◯さんだけ行く感じになりますね』みたいなヤツ。何だよ、『感じ』って? どうしてぼかすんだ?
 スプーンですくったプリンを一口食べた若い女性が、驚いたような顔をして『私 これ好きかも!』って言ったりもする。アンタ、自分の気持ちもわからんのか?『私 これ好き!』でいいじゃないの。
 精一杯の皮肉で、はっきりしないこれらの民を『カモ族』と呼ぶことにする。


ー『カモ族』のプロポーズ ー

男『私はあなたを好きかもしれないので、結婚したいかも』(とひざまずいて指輪を差し出す)

女『よろしくお願いしたいかも』(満面の笑みをたたえている)

男『ああ!良かったかもしれないし嬉しいかもしれない。2人で幸せになりたいかもね』

女『そうかも。私いい奥さんになりたいかもしれないの。でも結婚式はキチンとしたいかもしれない』

男『僕もそれは賛成かも』

女『私、ウエディングドレスが着たいかもしれないんだけど』

男『きっとキレイかも!そして楽しみかも』

女『あっ、でもお父さんが賛成してくれるか心配かも』(と不安そうな顔をしながら)

男『大丈夫。僕が絶対2人の結婚を認めさせるかもしれないよ』(そして手を取り合って見つめ合う2人・・・)

 『かも』は、意思表示する際は、この駄文のように突っ込みどころ満載で変な言葉になってしまう。文中の『かも』は『感じ』にも置き換えられるが、さらに『感じかも』という複合技にすれば、曖昧さは2倍増しとなり、もはや何を言いたいのかわからなくなる。
 ・・・とまぁ秋の夜長に1円の得にもならないようなことを考えている還暦のオヤジとは私のことでした。お後がよろしいようで。

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