仏談 -観音様-
仏教の教えの中においては、命あるものが生きる世界は全部で6つ(六道)あり、私たちはその中の1つである人間の世界に住む。素晴らしきかなこの人生!と能天気な生命活動を送る私たちではあるが、寿命が尽き臨終の後に生まれ変わって次の世界に行くことを永久に繰り返す輪廻からは逃れることができない。そんな私たちは、生というものに苦しむようになっているのだが、死後どの世界に行くことになろうとも、迷い苦しむ衆生のためにわざわざ身を尽くし、救おうとしてくれるのが観音と呼ばれる仏様だ。Canon(キャノン)という映像機器メーカーがあるが、このネーミングは「観音・カンノン」からきているというのは知っている人は知っている話である。
六つの世界(六道)とは最高の天上道、続いて私たち人類がうごめく人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の順になっている。この六つの世界に生まれ変わると、どの世界であっても、いずれそこでの寿命は尽きるため、永遠の命ではない。仮に六道の中では最高の天上道に行こうとも、この時間的な限界からは逃れらず、生けとし生けるものは誰しも六道の中を永遠に転生し続けることになる。それぞれの世界で寿命が尽きるまで住むわけで、地獄道なんかに行ったらどんなに苦しくったって、死ぬに死ねない(もう死んでるけど)毎日である。が一番軽い罪人が落ちる等活(とうかつ)地獄であっても1兆6653億1250万年、最悪の無間(むけん)地獄にでも落ちようものなら、682京1120兆年にわたって苦しみが続く訳だ。いやぁ当時の人々は我が身の行く末を思うと恐ろしかっただろうなぁ。「悟る≒解脱」という言葉があるが、これはその輪廻転生の無限の繰り返しから脱し、あらゆる苦しみから永久に解放されることだ。
仏教というものは奥深い。悟りを開いたら仏様になるのだが、そうなったらなったで大変である。なぜなら螺髪(らほつ)と呼ばれるパンチパーマのようなブツブツの頭になるし、おデコの真ん中には白毫という光る毛が生えてそれがひと塊になり、丸くデキモノみたいになる。歯が40本になり、手の指の間には水かきまでできる。着る物は薄い布一枚だ。何よりもれなく身長は一丈六尺(4.8m)にもなる。ちょっと古くなるが、こりゃほとけ版のメルモちゃんではないか。この辺りは悟りを開いた仏様の特徴を表した「三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじっしゅこう)」を是非参考にされたい。笑っちゃいけないが、知らない人はきっと笑える。
観音様は変化(へんげ)する。わかりやすくいうならそれぞれの場面に応じて「変身!!」とやるわけだ。そのもっとも基本になる基本形が『聖観音』と呼ばれるスタイルだ。このお姿の像で一番有名なのは薬師寺のお像だろうか。その基本の姿から仮面ライダーのように状況に合わせて『○○フォーム』に変身し、衆生を救う。変身した姿の中でもよく耳にするのは『十一面観音』や『千手観音』かな。仏様には性別などないのだが、十一面観音はよく絶世の美女に例えられたりする。
さて今回はそんな美しさを武器に、荒ぶる異形の神を鎮めた観音様の話を一つ。全国のお寺には『◯◯観音』をはじめとして、『◯◯えびす』、『◯◯文殊院』、『◯◯地蔵尊』などという、尊格の名前がついた俗称があるが、その中に『◯◯聖天』と呼ばれるものがある。祀られているのは歓喜天という仏様(元々はインドの神様だが)なのだが、この歓喜天、人身象頭の化け物2体がしっかとハグしている姿なのである。互いに相手の右肩にあごを乗せて、抱き合う姿は仏様とは程遠い気もするが、いわれは以下の通りだ。
抱き合う2頭は男天と女天の2神で、男天の方は元々牛は食うわ人は食うわの肉食系の荒ぶる王(神)で、たまりかねた民衆に助けを求められた十一面観音は、自身の体を男天と同じく人身象頭の姿に化身させた。男天から見れば絶世の美女、というよりセクシーこの上ない姿にである。男天は十一面観音が化身した女天の体に触れ、それ以上の行為に及びたくて仕方がないのだが、観音様はそんな男天の劣情を手玉に取り、『未来の世が尽きるまで仏法を守護すること』、『修行者達を守護すること』、『また今後衆生に対して悪事を働かないこと』などの約束を取り付け、ようやく抱きあったと伝えられている。しかしこの十一面観音の化身である女天は、男天と体を密着させ抱き合いながらも、男天が悪さをしようと動き出せないように、足を踏みつけているのである。魅力的な自分の肉体と引き換えに男を骨抜きにしながら、完全に鎮圧するなんざ、まごうことのない性神といえるのではあるまいか・・・。