なかなか割り切れない、わたしの「誰かにとっては必要でないモノたち」
高校の頃、バイトで稼いだお小遣いをつぎ込んで、おしゃれな服を買うではなく、アメリカの映画ばかり見ていた私は、田舎では手に入らないからと、アメリカ雑貨を扱う専門店の通販で、カントリー調のインテリア雑貨を集めていた。
あんなにいろいろ買ったのに、今は数個のアンティーク調のホーローの缶を残してあとはいつの間にかどっかへいってしまった。
20年ほど前、イギリスに少しの間ホームステイしていた時に、無駄使いと分かっていながら、なんだか始終ワクワクして、近所のお店でおもちゃみたいなピアスまで買ってしまった。それは、なぜだかずっと持っている。
ホームシックになりながら、たった半年しか勤められなかった初めての東京暮らしで、毎週と言っていいほど通ったさまざまな映画館で観た映画のパンフレットも、ほとんど再読する事ないのに棚に並び続けている。
職場で使うからとダイソーで適当に選んで買った100円のマグカップ。
辞めた時に、持って帰ってきて「そのうち割れるだろうな」とおもっていたら、思いのほか割れずになんだか頑張っている気がして、そのまま使い続けているうちになんだか愛着が湧いてしまった。
東京に2度引っ越したり、また出戻ったり、
少しづつどこかの時点で手放したけれど、いろいろな時代の
「私があの頃必要だったモノ」のなごりは少しづつ残っている。
見るたびに
「ああ、そういえばこういうモノが好きだった時期があったなぁ」
とその都度思い出す訳でもない。
もはや、生活の一部にそのモノたちはあって、
それが溜まりすぎると、大変な物持ちになってしまうのだろうけれど
思う程残っている訳でもない。
リサイクルに出したり、出せないようなものは思い切って処分したり。
地道に私なりにモノの「循環」をさせていた。
昔の写真をみると、思い出せないような服を着ていたり
逆に「これ手放しちゃったんだ!」と少し名残惜しいものもある。
だけど、その時はそれが必要だったり、そして必要としなくなったり
そういうことを繰り返して、その都度何かを乗り越えてきたのだと思う。
絶対に手放さないと思ったモノも、見方を替えればあっけなく手を離れていく。
思い出は大切だけど、何でもかんでもを思い出にしてしまうと、頭の中までかさばってしまう。
そうはいっても、分かってはいるけれど、やっぱり処分できないモノや、一見必要ないモノは必ずあって、だけどそれもすべてきれいさっぱり無くしてしまうと、なんだか私は落ち着かない。
きっと一生ミニマリスト的な生き方は出来ないのだろうし
きっとずっと「モノ」で頭を悩ませるのだろうな。
身一つで堂々と生きている、猫がうらやましい今日この頃である。
さいごまで読んでいただき感謝の気持ちでいっぱいです(o^―^o)!! 貴重なあなたの時間の一部が、よいものとなりますように✨