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治水と農業。桝谷ダムから見る歴史の流れ


桝谷ダムというダムをご存知でしょうか?

日野川 ウィキペディアコモンズより引用

越前市のふるさとの河川ともいえる日野川の水を貯めているダムで南越前町にあります。

北新庄地区にあたるマルカワみそ農園のパイプライン水路の水は桝谷ダムからやってきます。
ダムや河川事業に携わっているすべての方々、本当にありがとうございます。お陰様で営農ができています。感謝しかありません。

虎の子の貯水率。8月後半、最悪台風の9月まで

桝谷ダム ウィキペディアコモンズより引用

仕事終わりにご近所さんとお話した時の出来事を紹介させてください。

自分:梅雨明けからパイプラインの圧が弱くなりましたね。

ご近所さん:例年よりも多い降雨量なのに今から締めているの。

自分:天気予報も晴ればかりなので、去年と同じようになるんですか?

ご近所さん:ほやの。
お米は今から穂がでるから一番水が必要になるんやけどの。
けど、水を開放すると貯水率が戻らんのやろ。

自分:わかりました。ありがとうございます。

全国でも有数の米どころ福井。各々の弛まぬ努力で成し得ること

ダムの管理をされている方はパイプラインの調整が米の品質に直結することをよく理解しされている方だと私は感じます。
福井の米が全国で高く評価されるのは、農業用水の管理に精通した方々のおかげです。

もし私がダムの水量管理をする立場だったとしても、現時点で水圧を解放することはしないでしょう。
理由は近年の8月から貯水率が減ることがあっても二度と戻らないからです。(大型台風がくるとなると話は別)

ダムの水は農業用水だけでなく、生活用水、工業用水、電気用など多岐に渡っています。
生活の基本を支えているのが水であり、ダムなんです。

水喧嘩という季語も。死人も発生。それを変えたのがパイプライン

大屋地区で昭和初期に活躍された故人と生前お話をした事があります。
川上、川中、川下で実際に水喧嘩があったと聞いています。

現在でも減少傾向にあるものの、農家同士の衝突は依然として存在しており、世界中で水を巡る争いが見受けられます。
その結果、争いにより命を落とす人もいます。

水見半作」と呼ばれるくらい水の管理は稲作の半分を占めるほど大切な作業なのです。その故人は真夜中に土嚢を用水路に積み込みをしていました。
リアル我田引水ですね。

街路灯も、運搬車もない中で重量物の土嚢を用水路に積み込むことは、私には想像できないほどの重労働です。また、お隣の農家さんに見つかると、お互いに感情的になってしまうかも知れません。

それを解放したのが農業用水のパイプラインでもあります。
別の問題が発生しましたが、それはまた別のお話に。

「飲水思源」
そんな言葉と高校の恩師が脳裏に浮かびました。


日野川の近くに田んぼや学校があるのは当たり前でないんやぞ!と熱く仰っていたのを思い出しました。
(あの時は反抗期真っ盛り。「先生、うざい。」と毛嫌いしていました。後悔先に立たず。もっと師の言葉を胸に刻めるように努力すればよかった…)

物事の基本を忘れないという戒めの語。また、他人から受けた恩を忘れてはいけないという戒めの語。水を飲むとき、その水源のことを思う意から。▽「思源」は源のことを考える意。「水みずを飲のみて源みなもとを思おもう」と訓読する。

三省堂 新明解四字熟語辞典より

ある名君の言葉。
どんなに大切なものでも、争いの種になるならいりません。


平成13年9月15日本多富正公350回忌法要のスナップより引用

私が印象的だったお話を書かせてください。

ある国の出来事でした。
敵軍の侵攻により、包囲網が敷かれて補給路を断たれました。
食料と兵站の確保が困難になった状況です。

頼みになるのは援軍。

籠城中の兵士には不満が募ります。
兵士たちの間には小競り合いが起きるようになりました。
「お前のパンの方が大きい」
「もっと水をよこせ」

君主は食料を投げ捨て、貯水瓶を割ります。

兵士は諌めます。

「な、なにをなさいますか?大切な食料と水を!!」

いくら大切なものでも争いの種になるのならいらないわ

あたしたち自身が自分の欲のために他人を傷つけたりしてどうするの?
それじゃ魔王軍と変わらないじゃない。魔物と同じ道を歩むぐらいなら、人間として飢えて死にましょう!!

と言いました。ダイの大冒険という物語のレオナ姫(14歳)の言葉です。

作り話しかよ!と肩透かしにあった方は実話も紹介させてください。

山梨の竜王町にある「信玄堤」は山梨の治水において重要な役割を果ている堤防です。この堤は今でも存在し、その存在感を放っています。

誰が作ったのか?説明するのは野暮ですかね…。

福井県の九頭竜川 国土交通省HPより引用

九頭竜川(くずりゅうがわ)は別名「崩れ川(くずれがわ)」とも呼ばれ、洪水のたびに平地が湖のようになっていました。
九つの龍頭の川という呼び名のように、川の流れが変わることもあり、氾濫のたびに、その川筋をたびたび変えてきたようです。

はるか昔から世代を超えて何度も何度も治水工事が行われてきたようです。
江戸時代初期、徳川家康の次男、結城秀康公が越前の国を治めたときには、家老の本多富正(元覚)に堤防を作るように命じました。
「お仙なかすな馬肥やせ」の叔父さんに育てられたと説明すると福井県民の方は「あ〜一筆啓上の。」となるかも知れません(笑)
本多元覚は九頭竜川の松岡から北野にかけて堤防をつくり堤防の名前は「元覚堤」と呼ばれています。

農業と治水は先人たちの歴史と汗の賜物


クボタHPより引用

私たちの先祖が代々つくり続けてきた田んぼは、食料を生み出すだけでなく、土砂流出の多い日本の国土を守る役割も果たしています。

地球温暖化の影響で、気温は以前とは大きく異なっています。
また、多様性のある社会になりました。
そのため、農業の在り方や人々の土や水に対する意識にも変化が見られるかもしれません。

しかし、美しい自然や先人たちの農業に対する並々ならぬ努力、創意工夫に敬意を払い、歴史のある出来事を後世にも伝えていくべきだと考えています。
それが農業従事者としての一つの役割と考えて、日々圃場に向かっています。