【短編】ピノッキオ
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ダコタは父親と母親のあいだに生まれた一人目の子どもであったが、同時に二人目の子でもあった。
ダコタには兄がいた。兄は彼女が生まれる二十二年前に父のビジネスパートナーとして、無二の親友として、または大切な息子として、ロンドンの老人形師の手によって作りあげられた。まだ二十歳手前だった父は、その人形にピノッキオという名前をつけた。
ダコタが幼い頃に聞いたおとぎ話や子守唄は、たいていが父とピノッキオとの偉大なる冒険譚に依ったものだった。彼女はそれらの話を、何度も何度も、くりかえし聞いた。彼らがいっしょに過ごした二十数年間はハリウッド映画を幾重にも折り重ねたくらいに濃密なものだった。あるときはピノッキオが悪質な行商に連れ去られ、父が決死の思いでそこから救出した。あるときはめまいがするほど巨大な大鯨にふたりで対峙し、機転をきかせて追い払うことに成功した。
彼女のなかで父親はまぎれもないヒーローだった。そして同様に、ピノッキオについてもまた尊敬すべきヒーローであった。
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彼女の父親は腹話術師として国のあちこちを巡業していた。もちろんどこに行くにもピノッキオといっしょだった。ショーが終わるとふたりは主催者の呼びかけにも応えず、さっさとキャンピングカーに戻り、その地域の酒を酌み交わした。当日のショーの出来についてどこが良かったか、どこがウケたかを語り合い、同日出演者のことを悪口でさんざんにこき下ろした。不思議とお互いの意見が衝突するようなことはなかった。彼らは順風満帆な旅ぐらしを送っていた。
ダコタが生まれてからは郊外に一軒家を建て、そこに定住した。ショーに出ることは減ったが、そのぶんテレビジョンに出演することが増えた。ふたりは瞬く間に世間の人気者となった。「腹話術」という手法がまだ新鮮に響いた時代だったのだ。それに、ピノッキオはそこらの人形とは明らかに違っていた。彼の所作のひとつひとつには、まさしく生命の影のようなものを感じ取ることができた。ピノッキオは活発に両手両足を動かし、ダコタの父親より少し高い声でシニカルなジョークを飛ばしまくった。ふたりは文字通り寄り添いあい、支えあいながらスターダムへの階段を駆けのぼっていった。
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彼女の家の食卓において、上座はピノッキオの定位置だった。感謝祭の日にもクリスマスの日にも、また、それ以外の特にイベントがない多くの日にも、ピノッキオの前にはほかの家族と同じような食事が用意された。一度、ダコタが彼のプレートからチキンソテーを取ろうとしてひどく叱られたことがある。それはすこし異常なくらいの怒りようだった。
「自分のものを食べなさい! 彼のものに手を出すなんてなにを考えているんだ! お前はピノッキオに対しての敬意が足りてない。お前のお兄さんなんだぞ、ほら、謝るんだ。早く、謝れ!」
ダコタは謝罪をした。ピノッキオにというよりは父親に向けて。その夜、いつもどおり父親がピノッキオの前に置かれた手付かずの食事を片付けるのを見ていた。どうせ捨ててしまうのに、と彼女は思った。
また、ピノッキオには高額の生命保険と医療保険、傷害保険がかけられていた。父親はダコタのことを大事にしていたが、それ以上にピノッキオのことを大切に思っていた。かけられた保険の数と金額は、その差異の目に見える指標であった。
以前、ダコタは母親に聞いたことがある。彼女が十四歳を迎えたときのことだ。
「ねえ、パパといっしょにいると、なんだか時々むなしくならない?」
母親は薄く微笑んだだけでその問いには答えてくれなかった。ダコタは、「きっとママはそういう思いを何年もしてきたわけだから、とっくに感覚がまひしてしまったんだ」と思うことにした。母は娘と夫が激しいケンカをしていても仲裁に入ろうとはしなかった。彼女はいつも心の底でなにかに怯えている。ひどく臆病な人だったのだ。
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「ふつう」の基準線を知らない幼い子どもは、自分の置かれている環境がどれだけ異質なものであろうと、それを当然のものとして受け入れていく。ダコタにおいてもそうだった。自分の兄が腹話術人形であるということはさして奇妙なものとして映らなかった。
彼女がその異常性に初めて気がついたのは、小学校に入学してから三度目の秋がやってきたころだった。テレビクルーがやってきたのだ。
それは全国ネットの放送局から派遣された撮影班で、ダコタが小学校から帰ってくると彼らがたずさえた巨大な機器が家のなかをびっしりと占領していた。ダコタは、きっとパパは有名人だから、どこからか取材かなにかにきたのだろうと考えた。そして、自分は大人しくしているべきだと判断し、自室にこもってパズルゲームをはじめた。
一時間ばかり経つと、知らない大人たちが勝手に自分の部屋へ入ってきた。大きな、バズーカのような機械もいっしょだった。
そしてそのなかの、一番人あたりの良さそうな男が彼女に質問した。
「自分の家族に人形がいることをどう思う?」
その質問からはじまった一連の問答に、彼女はいろいろなことを新しく理解していった。
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一度、大きな言い争いが起きたことがある。
ダコタが漠然と抱えていた愛情の不足感が、父親に向けて激発したのだ。ダコタはしばらくのあいだ、父親の作った料理を食べなくなった。ひんぱんに外出した。学校の友人の家に泊まることもあった。客観的にみれば、それは思春期特有の単なる反抗だったのだろうが、彼女の両親はそういったことにまったく慣れていなかった。
けっきょく、そのときにできたささやかな亀裂は時間の流れで自然と埋まっていった。少なくともはためにはそう見えた。家族構成こそ異質であったが、彼らの家庭はごく一般的な道筋をたどり、それなりの形に成っていったのだった。
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僕とダコタが出会ったのは百貨店の紳士服売り場だった。
君はその売り場の従業員で高校を出たばかりの十八歳だった。僕たちはいくつか言葉を交わしたのち、安っぽいメロドラマのようにすぐさま恋に落ちた。でもその気持ちは決して安っぽくなんかない。それはどうしようもなく密接な、ゆるぎのないものだ。
僕たちはいっしょに暮らすことを決めた。君は家を出ることを強く望んでいた。「いつまでもあそこにはいられないわ」と君はいった。そのころには君の家の事情について僕はすみずみまで承知していたから、その判断を止めようだなんてすこしも思わなかった。
「僕といっしょにいたほうが幸せだと思ってくれるのなら、ぜひそうしてほしい」
これが僕の思いで、君はそれに応えてくれた。
「ねえ」と君はいった。「当たり前じゃない。わたしはあなたを一番に愛しているんだもの」
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僕たちにはお金がなかった。だからふたりの生活は、三階建てのアパートの屋根裏部屋ではじまった。
「わたし本当に幸せよ、あなた」と君はいった。「あなたといっしょなら、どこにいても満たされている感じがするもの」
僕もまったく同じ気持ちだった。
僕は君から、ピノッキオとお父さんの話を聞いた。君はお父さんが出演していたテレビの録画ビデオを持っていたからそれもたくさん見させてもらった。たしかに彼の腹話術はたいした見ものだった。ほかの出演者とはクオリティの面で、そして観客をどれほど引き込むかという面で明らかに一線を画していた。ショーの映像を観ていると、ときどきピノッキオが人形だということを忘れてしまう。彼は人間よりも人間らしかったし、それでいて人間がどうしようもなく携帯している嫌味や傲慢の色をちらとも見せなかった。
ビデオを観ているとき、君はすこし無色になる。浮き世ばなれというと何か違うかもしれないけれど、そんな感じなのだ。まるですべてのものごとに対しての興味が一瞬のうちに褪せてしまい、それゆえにどこか超然とした態度に満たされたかのような。僕はその表情を見ると、無意識的な恐怖を感じる。怖くなる。僕はそのことを君に、なんとなく言えないままでいる。
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幸せな生活は半年ほどで破綻した。
君の父親が僕らの住居を見つけ出したのだ。
僕らの生活は自然と受け入れてもらえるだろうと、彼がやってくるまで僕はそのように考えていた。面識もないなか、君の父親はそういったことに対していくらか寛容だろうという想定があったのだ。だけど実際は違った。それはひどく楽観的なものの見方だったのだ。彼はひどく憤っていた。
「ダコタ!」と彼は叫ぶようにいった。「俺はな、お前がひとりで暮らすと聞いたから仕方なく送り出してやったんだ。だが、こんなことは聞いていないぞ! 親に無断で男と暮らすなんて! ふざけるな!」君のお父さんの目は真っ赤に充血していた。
君は悲鳴にも似た声をあげた。
「もうやめてよ!」といった。「お父さんにはもう付き合ってられないの。好きにさせてよ! わたしにはわたしの人生があるんだから! お父さんにはピノッキオがいるんだからいいじゃない。それにお母さんも! なんでわたしのことまで管理しようとするのよ!」
ふたりの大声が屋根裏部屋にきんきんと反響した。怒りは熱気に変わり、それがまたふたりの昂った感情に焚きものを注いでいく。
「管理するつもりなんてない、ただな、問題なのはお前が俺に嘘をついたことなんだ! わかるか?」
「だって話したって絶対に許してくれないじゃない、男の人といっしょに暮らすなんて! ねえ、お父さんこそわかってるの? お父さんにそのつもりがなくたって、お父さんはわたしを管理しようとしてるのよ」
「それはお前の決めつけだ! お前はまだ子どもなんだ、親に相談もなしでこんなところに住むなんて……。俺はお前の将来を心配して言ってるんだぞ!」
「心配してくれてるならもう放っておいてよ、わたしはもうさんざんお父さんに振り回されてきたの! あとは自由に過ごさせてよ!」
「なんて口をきくんだ! ここまで育ててやったのは誰だと思ってるんだ!」
「ああ、もうイヤ!」
君は毛羽立った埃っぽい絨毯のうえにへたり込んだ。
「なんでこんなことになるのよ!」
ヒステリックな声がうつろにこぼれ落ちる。
君のお父さんは言うことを聞かない娘への憤怒の行き先を、当事者のひとりである僕に向けることに決めたらしい。
「だいたいお前がな!」と彼は僕につかみかかってきた。「お前が娘をたぶらかしたんだろう、え? そうだろう? それにな、相手の親に許可を得ることなく同棲をはじめるなんて……、あろうことか、こんなうす汚いところに! お前に責任があるんだ! くそ野郎が!」
えり首をつかまれた僕は身動きがとれなくなった。
「このくそ野郎が!」と君の父親はくりかえした。
「ちょっとやめてよ! 彼に手を出さないで!」
君ははじかれたように立ち上がって、僕とお父さんのあいだに割って入った。お父さんの腕を掴み、僕から引き離そうとする。僕はどうすることもできなかった。そんな膠着状態がつづいた。
やがてお父さんは、君を力任せに払いのけた。その拍子に、僕も床に投げ出された。君はすぐに立ち上がってお父さんにむかっていった。
「出ていってよ!」と君は叫んだ。「もうここから出ていって! わたしの生活に立ち入らないで!」
「ああ、わかったよ」お父さんはいまや顔の輪郭まで真っ赤にしていた。「お前とは縁を切る! 絶縁だ。そっちこそ二度と家に帰ってくるんじゃないぞ、このろくでもない男と別れたとしても、お前が路頭に迷ったとしても、断じて家の門は開けないからな!」
「それでいいわよ! もっと早くにそうすればよかったと思ってるわ」
「母さんにも会わせないからな!」
「いいって言ってるでしょ!」
痛いくらいの言葉が飛び交っていた。血のつながった親子のあいだでやりとりされる言葉としてはあまりに攻撃的で、お互いを深く傷つけようとしていた。それはひどく哀しい光景だった。
「さっさと消えて!」
「この出来損ない!」
頭が痛くなった。
僕はその暴言の応酬を見ているしかなかった。そうして、いつか君が話してくれた、君のお母さんのことを思い出していた。君のお母さんは、家庭での諍いにまったく介入してこなかったと言っていたね。僕には、そのときの君のお母さんの気持ちがわかる。これでもかというくらい鮮明に理解できる。僕たち人形は見ているだけなんだ。それだけしかできないんだ。止めることなんてできない。目の前で大切なものが壊れていくのがわかっていても、この手はぴくりとも動いてくれないし、この足にはすこしだって力が込もらない。僕は君たちがお互いを削りあって、同時に自分のなかを占めている大切な記憶を踏みにじっていくのを、ただ見ているしかない。
「死んじまえ!」
「こっちのセリフよ!」
部屋の戸が勢いよく閉められる。
人形はなにがあっても口を出せない。
僕は見ているしかない。
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