【短編小説】『人魚姫』
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オーケイ、ねえ、あなた聞いてる? 聞こえてる?
ねえ、最初からぜんぶ計算ずくだったのよ。そう、全部ぜんぶね。
……あなたはそれをわかってたの?
……ねえ、教えてよ。
わかっていたの?
ねえ。
教えてほしいのよ。
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むかしむかしというほど昔のことじゃあないけれど、ともかくあなたとわたしはあの岩場でぐうぜんに出会った。
わたしたち、見つめ合って、その瞬間は世界のいろんな流れがいっせいに止まって、お互いの存在事態が大きく揺らぐ予感があった。それだけ大きなものが、あの瞬間にはたしかにあったのよ。
きっと感じているものの種類は同じだった。そう、そのときはわたしだってあなたに深く恋をしていた。どうしようもなく激しくて、呼吸がきゅっと苦しくなるくらいにね。
それから何年も経って、あなたもわたしも大人になった。
あなたの乗っていた船が沈没しそうになって、最悪なことに巨大な嵐までやってきていた。わたしたち人魚や、海に住んでいる魚たちにはそうなること、とうにわかりきっていた。だって、その船の船底には明らかな亀裂が走っていたし、潮と風の動きはこれから訪れる雷雲のことを知らせてくれていたから。あなたたち人間はそれを読むことができなかった。そして大勢が死んだ。あなたのお父さんもそのなかに含まれていた。
悲劇の予兆があることを、わたしはやろうと思えばあなたたちに伝えることができた。でもやらなかった。わかる? そのおかげでわたしたち、また出会えたのよ。そして、深く通じ合って、いっしょになることができたのよ。
あなたを引き揚げたのも、あの岩場だった。それはまったくの偶然で、わたしもかなりびっくりしちゃった。そこでわたし、思ったわ。これはのちにこう語り継がれるだろうなって。
――それはそれは劇的な出会いが、未来の王子様と王女様を待っていたのです。
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あなたが肺炎だかなんだかにかかったというのは最初、人づてに聞いた。それからあなたが死んでしまうまではとても早かった。あなたの身体はすぐに白旗をあげて、さっさと生命を手放してしまった。そのあいだ、わたしはあなたとろくに話をしなかった。だからあなたがどれだけ苦しんだのかを、私は知らない。どこが痛くて、どこが苦しいのか、食事は摂れているのか、どういう気持ちでいるのか、外に出たいか、なにを考えているのか。わたしはひとつも知らなかったし、今でも知らない。
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国の人間は全員が周知しているエピソード。いや、世界中の人間みんなが知っているエピソード。きっと、そのうち挿し絵つきの本になって子供たちが読むようになるわ。
若くハンサムな王子の命を救った人魚姫は、彼と結婚し、幸せに暮らしました。
……いや、やっぱり本にはならないかもしれない。だってわたしはとくに苦労もしていないし、それに「幸せ」っていうところにはどうも疑問符がつく。
あなたはずっと「幸せ」そうな顔をしていたけれど、ねえ、本当に「幸せ」だったの?
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あなたは城のすみずみにまで巨大な水槽を張りめぐらせた。わたしが好きなように動けるように。わたしが不自由を感じることなく生活を送れるように。
あなたの行動をロマンチックだと褒めたたえる人間もいれば、ばかげていると一笑にふすだけの人間もいた。
正直にいうと、わたしはとてもうれしかったわ。くすぐったい気持ちもあったけれど、とても、とてもうれしかった。
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わたしが男を誘うときの言葉はおおかた決まっていた。
「ねえ、そんなあたりまえでいいの」
わたしは「特別」だから、その「特別」をふんだんに使った。普通の女じゃ見せられないような夢を、わたしは男たちに見せることができた。段違いな夢。だって、わたしは人魚姫だから。人魚姫との夜。それを拒める男なんているのかしら。いるわけがないし、事実いなかった。
他の男と会うことを、わたしは別に悪いことだとも思っていなかった。でも、そうしたいとも思っていなかった。それなのにやめなかった。
そういえば、人魚の男と会うことはまったくなかった。探そうと思えば海のなかにいくらでもいたと思うし、姫であるわたしのことを彼らが求めるようになるだろうことは考えずともわかりきっていた。でも、なぜか海には入らなかった。
わかる。なんでそうしなかったのか。
それは「特別」が薄れちゃうからよ。人魚同士がくっついたってなにもすごくない。そんなの想像するだけで寒気がするわ。
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憂鬱きどった自分が気持ち悪い。
このままダスターシュートに飛び込んでしまいたい。そうして気が遠くなるくらい遠くの集積場までパイプを通って運ばれていくの。腐臭を放つ生ゴミといっしょに。
それで? それでいったいどうなるの?
……けっきょく、どこにも行きつけないじゃない。
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とつぜん、尾が二股にわかれはじめた。それはわたしが不貞をはたらきはじめた時期とちょうどかぶるのだけれど、そのふたつのあいだになにか因果関係があるかどうかは正直わからない。だって、それはとても例外的な出来事だったから。これまで生きてきて尾が分かれるようになるなんて話は一度も聞いたことがなかったし、実際お父さんに聞いてみてもそんな例は初めてだって言ってた。
わたしは自分の身体に起こった変化にどうしようもなく動揺した。混乱した。鏡を見たときに、その混乱はもはやヒステリーに近いものに変わった。
そこに映ったシルエットは、やはり美しさに欠けていた。これまでのうっとりするような、均整のとれた美が、どこかに失われてしまっていた。わたしは水のなかで、響かない声で叫んだ。わたしを構成する大事な要素がまたたく間に瓦解してしまったような気がした。
あなたは「きっと地上での生活に適応できるように身体が変化したんだよ」と言った。あなたはわたしの気持ちなんて少しもわかっていないのね。わたしはあなたにそう言ったかしら? よく憶えていない。
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あなたはわたしがしていることを知っていたし、わたしはそのことを知っていた。
でもそのことについてどちらも話すことはしなかった。
きっとそういうふうにして、汚れは広がっていって、ちょっとやそっとじゃ落ちなくなって、いつのまにか定着しちゃうのよ。そういうものなの。そしてその汚れは、きっと死んでも落ちない。
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あなたがいなくなって、あなたの言葉だけが頭のなかに残って、それがひどく強くわたしの胸を突いて、ねえ、なんだかわたしは目の前で梯子を外されてしまったような気分。
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わたしの生まれや子ども時代のことについて、あなたはすごく知りたがった。だから、わたしも包み隠さずそれを教えてあげていた。
わたしは人魚のなかでも特別な「人魚姫」だった。世界の海全体を統制していた大昔の神様の息子がわたしのお父さんで、わたしはその娘だった。海の生き物たちはみんなわたしの言うことを聞いた。
「人魚姫」として、わたしはいろいろな制約に縛られていた。「人魚姫」としてしつけられていた。すべてが許可されている一方で、すべてが管理されていた。でも欲しいものはすべて手に入ったし、気に入らないものは目の前からなくしてしまうことができた。
それがわたしの昔であって、いま。
あなたが特に気に入っていたのは、沈没した海賊船に出会ったときの話。クジラの群れの真ん中で泳いだときの話。海のなかの宝石の話。深海から上がってきた奇妙な形をした甲殻類の話。呪いの島の話。初めて人間と話した人魚の話。
わたしとあなたが出会ったときの話。
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あなたが息を引き取ったとき、わたしは少し安心したような気がする。
その安心はね、うまく言えないけれど、あなたに安心したの。わたしが安心したんじゃないのよ。うまく言えないけれど。
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ねえ、わたしだって本当はやめたかったんだから。
でもそれは自由意志の問題じゃないの。「やる・やらない」じゃなくて、「できる・できない」なの。わたしはやめることをできなかったの。
それに気づいてから、わたしはもうひとつ、あることに気がついた。
わたしはいままで、選択したことがなかった。正確にいえば、わたしの意志に従って選択したことがなかった。わたしじゃないなにかが、いつもなにかを選んでいたの。わたしの行動も、言葉も、姿勢も、気持ちも。なにもかも。大きな、表情のない闇のような、なにかが。
あなたにそのことを言いたかった。
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「スポイルされ尽くした女」だとか、「はしたない淫乱」だとか、あなたがいなくなった城のなかで、わたしはそういうふうに呼ばれている。みんなそのことを隠そうともしなくなった。彼女たちはいろいろ言う。そのどれもがほんとうのことだから笑っちゃう。
みんな死んじゃえばいいのに。
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あなたが死ぬ間際、あなたはわたしを呼び出した。
わたしはあなたの部屋—かつてはあなたとわたしの寝室だった部屋—に入っていって、あなたの寝ているベッドの脇に腰かけた。
あなた、顔が真っ白になって、青っぽい欠陥がなにかの印みたいに顔じゅうに走っていて、正直最初は別人かと思ったわ。そして同時に怖くもなった。「死」というものがそのまま形をとってわたしの前に寝そべっているような恐怖。いつかわたしもそうなるのかという恐怖。……そうね、わたしはあなたが今にも死にそうなときにも自分のことばかり考えていたみたい。
あなたはわたしを見て、笑った。優しい、陽だまりみたいな笑顔。死にかけの人間が浮かべられる表情じゃないわ。あなたはわたしになにかを伝えようとしていた。でも、あなたの口から出てくるのは音を伴わない、かすれた息の残りかすみたいなものだけだった。
わたしはあなたの頬を撫でた。あなたの肌に触れるのは、もうずいぶん久しぶりのことだった。
あなたは一度、強く咳き込んだ。少しだけ血を吐いた。そのあとで、わたしにやはりさっきと同じあの笑顔を向けて、言った。まるで赦しを与えるみたいに。あなたは言った。
「人魚姫だから、きみといっしょにいたわけじゃないよ」
あなたはそう言って、死んだ。
その一言を伝えるためだけに最後の数時間を過ごしていたみたいに、言葉が出切ったまさにその瞬間、あなたは死んだ。わたしはあなたの顔に手をかざして、開いたままの目を閉じさせてあげた。
なにも言えなかった。
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あたしのなかに下ろされた錨はかなり深く食い込んでいるみたいで、少し動くだけで、ずきずきと痛む。
いろんな男たちから浴びた言葉が、今はおぞましいものとしてわたしの記憶のなかに立ち上がってくる。
「キミは特別だ」
ねえ、じゃあ教えてよ。「特別」ってなんなの? わたしにはわからないの。わたしは生まれたときからずっと人魚姫だった。そして人魚姫として育てられて、人魚姫としていまここに呼吸をしている。だからわからないのよ。最初から「特別」だって決められていたわたしには。
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自分だけみすみす生きながらえてしまって、わたしがいま、あなたに聞きたいことはひとつだけ。
あなたは、わたしが人魚姫だから好きになったわけではないと言った。
でも、そこでわからないのは、わたしから人魚姫を差し引いてそこになにかが残っていたのかということ。たとえそこになにかがあったとして、あなたはそれを視ることができていたのかしら。わたしにだって視えていないのに。一度だって、視えたことなんてないのに。
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けっきょく、城にはいづらくなって、わたしはそこを出ていくことにした。あなたがそれを知ったら、きっと召使たちにひどく怒るんでしょうね。
ねえ、わたしはなんだか図々しく後悔なんてしているみたい。あなたのお墓の前に立って、初めてそういう気持ちになってきた。
ふりかえればバカみたいな話なのよ。わたしは操り人形みたいに、さしてやりたくないことをやって自分を満たして、あなたを傷つけて、深く傷つけて、あなたが死んでしまう瞬間にも謝らなくて、それでも赦してくれるあなたを直視できなくて、ひとりで考えて、わかりきった結論をこちらに寄せつけないよう放棄しているの。
……ねえ、なんで怒らないのよ。
……もっと否定してよ。
だって、そうするべきじゃない。
ああ。
膝をついて、あなたの墓石に刻まれた文字を撫でる。あなたの名前。そう、あなたの名前。素敵だって、わたし前に言ったわね。子供のときのことよ。初めて会ったときの。そう、そのとき、わたしそう言ったの。そして、わたしの名前を言ったら、あなたもそれを褒めてくれた。あれ? わたし、なんて名前だったんだっけ? なんでこんなこと忘れてしまうのかしら。
ねえ、あなたがいれば、教えてくれるのにね。