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【短編小説】『しらゆき姫』


 決定打になったのは義母のひとことだった。
 「そんなにこの家が気に入らないというのならさっさと出ていきなさい!」

 ネスはまだ薄紅色の気配が残る頬を大きくふくらませ、「そのつもりだよ!」と叫ぶように応答した。

 義母は言った。「あなたの気持ちもわかるわ。じゅうぶんにわかる。だけど、もう一年も経つのよ? そろそろ心を開いてくれてもいいんじゃない」

 「あんたたちが勝手に僕の生活に割り込んできたんだ!」とネスは言った。「僕は父さんと二人で幸せだったのに……。ずかずかと僕らの暮らしに入ってきて、こんなところに引越しさせられて……、そんなやつらとなんで仲良くしないといけないんだよ!」

 義母の後ろで赤子のジェーンが泣いた。ネスの父親と義母のあいだに生まれた子供だ。ネスとは半分だけ同じ血が流れている。

 義母はネスの言葉にショックを受け、うろたえている様子だった。その表情にはネスもさすがにいたたまれないような気持ちを感じた。言い過ぎたかもしれない。そのときには、なぜ自分がここまで新しい生活に突っかかっているのか、と不思議に思いさえした。

 だが、もうこれ以上我慢ならないというのもまた、揺るがしがたい事実であった。ネスは奥歯を噛みしめ、きびすを返して屋敷の入り口をぬけた。うしろから義母の呼ぶ声が聞こえてきた。でも、ネスは振り向かなかった。そのまま走り、気がつけば町を通り過ぎていた。”くらがり森”への入り口に突き当たっていた。

 ネスは少し迷ってから森のなかに入っていった。どうせ行くあてなどないのだ。どこか気軽に休めるところを探して、そこでのんびり暮らそう。まだ幼いネスには、それが実現可能な思いつきに感じられた。不安よりも楽しみや期待を心に抱いていた。僕はひとりで、まったく自由に生きていくのだ、と。

 最初のうちはよかった。木々から垂れ下がっている木の実を食べたり、道ばたに落ちていた丈夫な木の枝であたりをかきまわしたりしているだけで愉快な気持ちになれた。だが、夜が訪れるとそんな楽観的な心情もあっさりと霧消してしまった。夜はひどく暗かった。いや、森の夜はひどく暗かった。ネスはそのことを知らなかった。電気も外灯も、ここにはひとつだってない。時間を追うごとに、暗闇はどんどん濃密になっていった。そこまで原初的な暗闇に遭遇するのは、ネスにとって初めての経験だった。

 とうぜん、彼は恐怖をおぼえ、急激に心細くなった。ネスは行きあたった巨木の幹に身体をあずけ、夜のあいだじゅう、ぴたりとも動こうとしなかった。ただ時間が過ぎるのを待っていた。眠ることなど到底できやしなかった。風や小動物が起こす物音に、いちいち心臓が跳ねあがった。

 そんな状況にあったので、東のほうから微細な陽光が差し込んできたとき、ネスはまるで自分が新しい存在にそっくり生まれ変わったかのような気持ちを感じた。生きていることがまるで奇跡であるかのように思えた。

 陽の光によって辺りが見渡せるようになると、ネスはすぐに行動を開始した。もう昨日ような夜を過ごすのはごめんだった。昼のうちに、どこか安らげる場所を探さないといけない。使われなくなった小屋などがあれば文句はないのだが……。

 捜索は5時間ほど行なわれた。ネスはくたくただった。
 そうして見つかったのが、彼女と彼らの家だった。



 とつぜん、開けた土地が現れた。

 木々の生えていないスペースが楕円形に広がっており、その中心に煙突付きの石造り家屋が建っていた。そのとなりには小さな馬小屋が二つ並んでいる。少し離れたところには井戸と工具置き場もあった。

 ネスは家のほうに近づいていった。そうしながら、身なりをさっと整えた。ドアをノックする前から、なかに誰かがいるとわかっていたのだ。話し声こそ聞こえなかったのだが、そこにはたしかに人の存在を感じとることができる。

 ネスは戸をノックする。
 「ごめんください」
 返事はない。
 「ごめんください」とネスはくりかえした。
 すると、音もなく扉がひらいた。ネスは思わず身を引いた。
 「どなた?」と扉の奥の声が言った。少し攻撃的な、とげのある声だった。

 ネスはその声の主をそっと見上げた。
 背の高い女だった。かっぷくがよく、たくましい両肩はうしろに引かれ、砂袋が詰まっているような胸は大きく前に突き出されていた。顔の輪郭は中年女性特有の丸みを確実に帯びてきており、肌は異様なほどに白く、そのぶん唇に塗られた赤のルージュが殺人的に際立っていた。身につけているヒマワリ色のドレスは、かつては華美であったのだろうが、いまではシワがより、色は悲しげに褪せてしまっていた。落ちぶれ、うち捨てられた貴族。そんな印象を、ネスはその女の容貌から感じとった。

 「あの、実は、道に迷ってしまって……」とネスはたどたどしく言った。「少し休めるところを探していたんです。そしたら、このおうちが目に入って……」

 「ふうん」女は砂色の髪を後ろになでつけながら言った。「あんた、家出してきたんだろう?」

 図星をつかれたネスは何を言うこともできず、じっと黙り込んでしまった。その様子を見て、女はひどく愉しそうに笑った。酒場の男主人があげるような笑い声に、ネスはまた少し気圧される。

 「いいよ、休んでいきな。なんならずっとここにいてもいいよ。話し相手がいなくて退屈していたところなんだ」

 そういいながら、女は家のなかに引き返していく。ネスはそのうしろすがたをぼんやりと見つめていた。

 「何をしているんだい」からだの大きな女はネスに向かって投げつけるようにして言った。「さっさとなかに入りな。疲れているんだろう? なに、捕って食いやしないよ。早くこっちにきて、そこに座りな」

 ネスはつばをのみこみ、礼を言って、靴の裏についた泥をしっかりと落としてから家に入った。腰を落ち着ける場所が見つかったことと、ここは本当に安全なのだろうかという思いがちょうど半分ずつ胸に去来していた。

 だけどネスには選択の余地がなかった。これ以上歩きつづけることなんてできやしない。それならば、この女性の厚意に甘えるしかない。ネスはその機会がもたらされたことに感謝すべきなのだと考えた。自らの幸運に、そして家の主と見られる女性の優しさに。

 「僕はネスと言います」テーブルにつくと、ネスは言った。「町の方から来ました」

 「やけに疲れているみたいだね」と女は言った。キッチンに向かい、やかんに火をかけた。「野宿でもしてきたのかい?」

 「そうです」とネスは応えた。

 女は慣れた手つきで紅茶を二杯入れ、ひとつをネスの前に出した。ネスは紅茶が苦手だったのだが残すのも良くないと思い、砂糖をたくさん入れて無理に飲み切った。

 女は肉の積もった顎を右手で支えながら、ネスに言った。

 「あたしはシラユキ。ずっとここで暮らしてるの。いえ、ひとりでじゃないわ。子供がいるの、七人ね。どうしようもない馬鹿どもよ。きっとあと二時間くらいで帰ってくるわ。どうしようもない、愚かな馬鹿ども」




 「もともと、ここはあたし一人の家だったのよ」とシラユキは眼球のなかの火をゆらゆらとたぎらせながら話をはじめた。「いまはあいつらも一緒にいるわけだけど」

 「七人もお子さんがいらっしゃるんですか?」とネスは訊いた。父親が仕事の相手に使うような口調を真似してみた。

 「そうよ、ちょうどあんたと同じくらいのがね」
 「僕は九つです」
 「歳の話じゃあないよ」とシラユキは欠けの見える黄ばんだ歯を露出しながら笑った。「背たけの話さ。まあ見りゃあわかるよ。ちょうどあんたと同じくらいだからさ」

 ネスには女の言っていることの意味がよくわからなかった。なので別のことを訊いてみることにした。

 「お父さんはいないんですか、その子たちの」
 向かいの椅子に座る巨漢の女は砂糖菓子やクッキーに伸ばしていた手をぴたりと止めた。なにか空気が変わるのを、ネスは感じた。詮索してはいけない部分に手を触れた感覚があった。

 シラユキはさぞかし不愉快そうに、ひどく長いため息をついた。紅茶の入ったカップがかたかたと揺れた。ネスはテーブルの下で、デニムのズボンの裾をぎゅっと握った。

 「そうねえ、じゃあ最初から話してあげようかしら」やがて、シラユキは首をかしげながら言った。その声に苛立ちはこもっていなかった。さっきのため息は僕ではなく、なにか過去の出来事に向けて放たれたものなのだとわかり、ネスはほっと胸をなでおろした。

 「さっきも言ったように最初はあたしひとりで暮らしてたのよ。そしてまだ若かった。二十にもなっていなかったわ。たまに町に出て買い物をしたりもしたけど、基本的にはこの森のなかで生活をしてた。祖母は早くに死んだから、動物たちと一緒にね。きっとあなたにはそういう時間を想像できないでしょうね。のどかで、あたたかで、どこまでも透き通っているあの時間。
 今も変わっていないけど、あたしはその頃からとびきり美しかった。町の女なんかとは比べものにならないくらいにね。そしてそんな噂を聞きつけて、国の王子がやってきたのよ。わざわざ、こんな森の外れにまで。あたしたちはほどなく結婚したわ。それに合わせて、あたしも王宮に移った。どう? とっても順風満帆に聞こえるでしょう?」

 ネスには「順風満帆」の意味がわからなかった。だけど話の腰を折らないために肯いておいた。

 「全部変わっちまったのは子どもが生まれたせいなんだよ」とシラユキは苦いものを吐き捨てるように言った。

 ネスは首をかしげた。「でも、子どもが生まれるって良いことじゃないの? みんな喜ぶし、王様の子供だったら王子になるわけでしょう?」

 「普通の子どもだったらね」とシラユキは言った。

 「普通」とネスはくりかえした。正体のわからぬ不安が胸につもっていくのを感じた。

 「あたしから生まれたのはね」怒りをにじませる女は、奥歯をぐっと噛みしめながらこう言った。「悪夢そのものだよ」

 家の外からざっざっと砂を蹴る音が聞こえた。つられて窓のほうを見ると、どうやらいつの間にか日暮れがやってきていたようだった。ネスはほとんど反射的に、家に帰らなくてはと思った。たまらなく父親に会いたかった。だが、そのことをシラユキに告げるより早く、戸がゆっくりと開いた。

 「あれが悪夢の正体だよ。七つ子さ」

 夕焼けを背に、そこに立っていたのは七人の男だった。だが、ただの男たちじゃない。彼らはみな一様に、絵本のなかのキャラクターのように小ぶりな体をしていた。小人だ、とネスは思った。ネスは彼らの先頭にいたリーダー風の赤い帽子の男と、ただ数秒間見つめあっていた。唐突に現れたお互いの存在に、お互いどちらもが驚きを隠せなかったのだ。

 「汚い靴で入ってくるんじゃないよ。小屋の方で泥を落としてから入って来いって何度言ったらわかるんだい!」

 怒号が飛んだ。小人たちは黙って引き返していった。戸がしまった。

 シラユキは一人では抱えきれなくなった悩みをそっと打ち明けるように、ネスに甘ったるい声をかけた。

 「あいつらのせいであたしはここに逆戻りさ。小さすぎる赤子が七人も一緒に生まれたんだ。そりゃきみ悪がるさ。あたしを破滅させたのは、あたしから出てきたあいつらそのものなんだよ。本当に悪夢みたいな話さ。なあ、そう思うだろう、坊っちゃん?」

 ネスは口をつぐみ、悲しげに閉じられた扉をどうしようもない気持ちで眺めていた。


 家の裏手には大きなリンゴ畑があった。ネスはシラユキからリンゴを三つ取ってくることを命じられていた。ネスはより赤々としたものを三つ摘み取り、静かに家へと戻った。

 リンゴはみんなで分けられるものだと思っていたが、そのうちの二つと半分はシラユキがぺろりと平らげてしまった。残りの半個はネスに与えられたのだが、小人たちに悪いと思った彼は「いらない」と答えた。すると「そうかい」とシラユキは言い、その半個もまた、大きな口を開けてひと息に食べてしまった。

 小人たちはせっせと働いた。パンを焼き、野菜を切り、シチューを煮込んだ。ほとんどの作業を肩車をしながら行なっていた。彼らはとても器用だった。シラユキが風呂場にいくと、ネスはすかさず席を立ち、小人たちの夕食づくりを手伝った。小人たちは彼らのなかで数秒話し合ったのち、少年にシチューを混ぜる役割を任せてくれた。ネスは喜んでその仕事を請け負った。

 「あら、そんなことしなくていいのに」と風呂場から出てきたシラユキは言った。毛羽立った白いバスローブを羽織っていた。「雑用は全部まかせておけばいいんだよ、そいつらに」

 「いいんです。これくらいはやらなくちゃ」とネスは応じた。するとシラユキはつまらなそうに鼻から息を吐き、代わりに小人たちに向かって毒づいた。

 「なあ、腹が減ったよ。もうできたんじゃないか、あたしの分くらいはさ。早く用意してくれよ」

 小人たちは返事をしなかった。だが、その言葉に従い、木皿を人数分用意し、そこにシチューを盛り付けた。ネスは木皿をひとつずつテーブルに運んでいった。だが、三つ目の皿に手をかけたところで小人のひとりが手を突き出し、それをさえぎった。そのあとで強く首を振る。

 「どうしたの?」とネスは訊いた。

 質問に答えたのはシラユキだった。彼女はぶっきらぼうに言った。「そいつらはとなりの小屋で食べたがるんだよ。寝床もあっちにあるんだ。好きにさせてやりな。あんたはこっちで食べていいんだからさ」

 ネスは小人のほうをふり返った。赤い三角帽を被った小人は力なげに肯いた。彼らがとなりの小屋で食べたがっているとは、ネスにはとても思えなかった。

 だが、ネスがなにかを言う前に彼らは自分たちの分の皿とパンを持って家を後にしてしまった。

 「さ、こっちに座りな。食べよう」言いながらシラユキはスプーンを忙しく動かしはじめていた。ネスは椅子にはついたものの、どうしてもシチューを食べる気にはなれなかった。心がざらつくのを感じ、その初めての感触に戸惑った。

 「僕も彼らと一緒に食べます」と、やがてネスは小さく言った。
 「はあ?」ネスの言ったことが聞こえたのか聞き取れなかったのかはわからないが、シラユキは弾かれるようにそんな声をあげた。
 「僕、彼らと一緒に食べてきます。お話もしたいし」
 言うと、シラユキが言葉を返すのを待たず、ネスはそそくさとテーブルを立った。

 「なんなんだい、いったい」
 シラユキのなかば怒鳴るような声が家に響いた。でもネスはかまわず外に出た。早足で明かりの灯った馬小屋に向かった。




 馬小屋のなかは外見以上に些末なものだった。

 真ん中に背の低い巨大な木製テーブルが配されているだけだ。床にはかなり古くなった干し草がぎっしりと敷き詰められている。小人たちは労働から帰り、ここで眠り、起きて、また次の日の労働へと出かけていくのだろう。

 たてつけの悪い引き戸を開くと、なかにいた小人たちの動きが一斉に止まった。ぽかんと口を開けてこちらを見ている。シチューをすくったばかりの手も空中で停止している。一番小さな小人は怯えたような視線をこちらに送っている。

 ネスは言った。
 「僕もここで一緒に食べていい?」
 七人の小人はそれぞれに顔を見合わせ、この不思議な来客にどのような対応をほどこすべきか視線のうちに相談した。やがて、一人の—赤い帽子を被った—小人がネスのほうに歩み寄ってきた。そして、彼の両肩に優しく手を置いた。赤帽の小人はゆっくりと首を振り、シラユキのいる家を指差した。心配そうな表情でネスに伝えようとしていた。「お前はあちらで食べなさい」と。

 ネスはすぐにこの小人たちが、口をきけないことを知った。なので彼らが伝えようとしていることを正確に受け取ろうと、少しだけ身体を前に出した。

 「こっちで食べたらいけないの?」

 赤帽はとても残念だと言いたげに眉間へしわを寄せた。

 「なんで?」
 ネスがそう訊くと、後ろにいた小人たちは慌ただしく立ち上がり、赤帽の周りに集まってきた。皆が色の違う帽子をかぶっている。青、黄色、緑、紫、橙……。そしてそのどの色の帽子もくたくたにくすんでしまっている。

 小人たちは七人総出で軽い寸劇のようなものをネスに見せてくれた。二人と五人の組にわかれ、二人のほうは残りの小人たちに暴力を振るうフリをした。殴られたほうの小人は—彼らにはそんなつもりはないのかもしれないが—実にコミカルに床に飛んでいった。それが数十秒ほど続き、ネスは彼らの言わんとしていることがなんとなくわかってきた。

 「シラユキさんが、君らに暴力をふるうっていうこと?」

 七人はほとんど同時にうなずく。そしてそのままネスのことを指さした。
 「僕もそうなるということ?」
 彼らは苦い顔でそれを認めた。そのあとで、震える目をネスにむかって投げかけた。少年の身を案じ、あわよくば早急にこの場から立ち去ることを勧めているのだ。私たちのような目にあってしまう前に……と。

 だがネスはその意思に従おうとはしなかった。彼は大きく胸を張った。
 「そんなの間違っているよ。きみたちはもっと大切にされるべきだ。愛されるべきだ。それに、僕はその間違いに手を貸すようなまねはしたくない。僕はきみらの味方だよ。だからここで一緒にいる」

 わずかな沈黙があった。ネスの言葉が馬小屋のほのかな灯りのなかにゆっくりと溶けていった。かなり長い時間が経ったように、ネスには感じられた。

 静寂を破ったのはひとりの小人だった。小人のなかでもとりわけ身体が小さく、サイズ違いのぶかぶかのむらさき帽をかぶっている。さきほどまでネスに抱いていた彼の警戒心はすっかりとなくなったようで、しかめつらの代わりにへらへらとした笑みを浮かべ、ネスの両手を握った。そして、肩が痛くなってしまうくらいに上下に大きく振り、歓迎の意を熱心に表現してみせた。

 それを皮切りにして、馬小屋の小人たちはネスのことをやさしく迎えいれた。赤帽の小人だけはまだ不安そうな表情を浮かべてはいたが、それでも少年の来訪自体についてはとても嬉しく思っていた。小人の仲間以外から優しさを向けられたことなど、ほとんどはじめての経験だったからだ。

 ネスと七人の小人は楽しい夜を過ごした。夜が深まるとランプの灯りを消して、それぞれ干し草でできた寝床にもぐっていった。小人たちはネスのために、小屋の裏手から真新しい綿のシャツとズボンを持ってきてくれた。寝床に入ってからもぼそぼそとした交流はつづいた。ネスがしゃべり、小人たちがそれに身振り手振りで応じた。それはネスにとっても久しぶりの、真に心が落ち着けるような時間であった。小人たちに見守られながら、ネスは静かに眠りに入っていった。深い深い、ゆったりとした流れの眠りだった。



 ネスは少しずつ、彼女と彼らの家での生活を知っていった。

 そこには痛ましげな主従関係が広がっていた。シラユキは小人たちを奴隷のようにあつかい、小人たちは不満げな顔こそ見せるものの、律儀にもその要望に従いつづけた。食事の用意や洗濯、掃除、ありとあらゆる家事が小人たちの仕事だった。シラユキがすることと言えば、労働により体の芯まで疲弊した彼らに命令としての指示を飛ばすことだけだった。

 ネスには、実の親子のあいだにそのような階級的なつながりができてしまっている事実をうまく受け入れることができなかった。親子というものはどのような形であれ、お互いな存在を認めあい、助け合い、愛し合うものだと考えていたのだ。だが、シラユキと小人のあいだにはそのようなつながりは見られない。親子というよりは主人と従僕というほうがしっくりくる。

 シラユキはよく暴力を振るった。小人たちは抵抗しなかった。暴力を振るわれることに慣れているのが、傍目でもすぐにわかった。彼らは平手で頬を張られているあいだも、じっと両のこぶしを握りしめ、その屈辱に耐えるだけなのだ。

 ネスはそういうことがあるたび、シラユキに暴力をやめるよう訴えかけた。だが—予想できていた反応ではあったが—彼女はそれに対してまったく取り合おうとしなかった。そしてシラユキは自分を諫めようとしてくるネスをだんだんと鬱陶しく思うようになった。彼が小人の馬小屋に入り浸っていることも彼女には腹立たしく感じられた。それでもときおり、小人たちが労働に出かけていったあいだなどにはネスのもとを訪ねていった。よこしまな考えがあったわけではない。森の中心で老いさらばえた彼女は、やはり心のどこかに寂しさの空白を携えており、それを埋めてくれるものを探しつづけていたのだ。……自分自身の子ども以外のなにかを。

 ネスはなんとかしてシラユキと小人たちの橋渡し役になろうとしていた。彼女と彼らの意思を疎通させ、本来あるべき親子関係に戻そうと奔走した。シラユキの話を聞き、その返答として小人側が抱えている問題をそれとなく述べてみた。小人たちのなかに母親のことを思う気持ちがいくつ残っているか確認しようとしてみた。

 だが、そんなこんなの努力もあまり効力を発揮しなかった。シラユキと七人の小人。彼らの親子関係はもうかなり昔に、ぎっちりと形を定められてしまったのだ。液体セメントは流しこまれ、ぱさぱさに乾燥し、きつく固まっている。



 小人たちはネス対してにとても親切だった。まるで彼が自分たちの子供であるかのように、慈しみをもって接してくれた。ネスはすぐに小人たちが大好きになった。

 小人たちは彼らの背丈ほどもある大きなショベルとツルハシをもって、森のなかへと労働に出かける。なにを掘っているのかはわからないが、おそらくなにか鉱石の類だろうとネスはあたりをつけている。実際、後日シラユキから聞いた話ではまさしくその通りだった。

 「東にずっと行くと古い鉱山があってね。おっと、期待しても無駄だよ。ルビーやエメラルドみたいな宝石なんてひとつだって出やしないんだから。安い鉄鉱石しか掘れないよ、あそこからは。まあ言っていて悲しくなるけどね、この家の収入源はそれなんだ。あいつらが掘って、稼いでくるんだ」

 七人の小人たちは労働から帰ってくるとき、ひどく暗い顔をしている。これからどんな展開が自分たちを待っているのか、それを痛いほどに知っているからだ。

 彼らがドアを開ける。
 大声が飛ぶ。
 「遅いよ! さっさと飯を作りな!」
 そうして彼らは殴られる。蹴られる。追いやられる。



 そんな日々のなか、小人たちの帰りが遅くなった。

 最初の日、シラユキはひどく苛立っていた。彼らが戻らないせいで食事にありつけないからだ。結局その日、小人たちはいつもより一時間ほど遅れて家に戻ってきた。シラユキは激昂した。帰りが遅くなっていたにもかかわらず、採掘できた鉱石の量はいつもより幾分少なかったことも、その怒りに新たな薪をくべた。

 「お前たち、いったいなにをしていたんだい! さっさと飯の用意をしな! どうせどこかでグダグダしていたんだろう! 仕事もろくにしないで、いったいなんなんだい、ふざけるんじゃないよ!」

 シラユキは七人の小人にきっちり二回ずつ張り手を喰らわせた。ネスは身を挺してそれを止めたのだが、まだ幼い彼の体はシラユキの巨体にかるがると吹き飛ばされてしまった。

 「また同じことがあったらお前たち、どうなるかわかってるだろうね? こんなんじゃすまないよ! さあ、わかったらさっさと動きな!」

 小人たちは疲弊し切って重たくなった身体を無理に動かし、いつもどおりの家事にとりかかった。顔にはいつもよりずっと表情がなくなっていた。

 シチューができあがり、ネスは自分の分を馬小屋に運びに行った。だが、彼は小屋のなかに入れてもらえなかった。赤帽の小人が扉の前に立ちふさがったのだ。

 「なに? どうしたの?」
 ネスが訊いても、小人はなにも答えようとしなかった。ただ、有無を言わせぬ厳粛な面持ちで首を振るだけなのだ。

 「なんで入れてくれないの?」
 小人は首を振る。
 「なんでよ!」
 ネスは身体をひねり、強引になかに押し入ろうとした。なかにいる小人たちに助けを乞おうと思った。

 だがその瞬間、ネスは思いきり後ろに突き飛ばされていた。赤帽の小さな手が彼の薄い胸をおもいきり突いたのだ。

 ネスはその場にしりもちをついた。手に持っていた木皿は空中でくるりと返り、ネスの胸元へと落ちた。つい先ほどまでぐつぐつと煮立っていたシチューが彼の胸をじゅわりと濡らす。

 ネスはあまりの熱さに悲鳴にも似た声をあげた。
 「熱い!」

 体から剥ぎ取るようにして、シャツを脱ぐ。乾いている部分で胸のあたりを押さえる。その下はすでに真っ赤に腫れあがってきている。

 ネスは睨みつけるようにして、赤帽の小人を見上げた。そこで、はっと息をのんだ。赤帽の小人の目にはたしかな困惑と後悔の色が浮かんでいたのだ。黒くつぶらな瞳がふるふると揺れている。火傷の痛みに身悶えするネスも、その目にはおもわず思考が止まった。なぜだか、怒りを向けることができなかった。

 小人はなにかに踏ん切りをつけるように、ネスの目の前で馬小屋の戸を閉めた。ばたんと大きな音がたち、そのあとは瞬く間に静寂の時間がやってきた。小屋のなかからは物音ひとつ聞こえてこなかった。


 小人たちが帰ってくる時刻は日に日に遅くなっていった。

 ネスは分針がひとつ動くごとに、さらなる緊張を積もらせていった。時間が進めば進むだけ、シラユキの機嫌が悪くなるからだ。そして、そこまで昂った苛立ちはすべて小人たちへの暴力という形で清算される。ネスはそれを恐れた。

 ある夜、シラユキはとうとう怒りの限りに達し、彼らに食事をとることを禁じた。彼女は自分の手が痛くなってしまうまで彼らをいたぶったあと、突き飛ばすようにして家の外に追い出した。

 「仕事もしてこない。帰ってくるのも遅い。そんな奴らに食べさせるものはないよ!」
 その日、ネスはなにも食べなかった。
 シラユキは言った。
 「あのねえ、あんた。あんな奴らに同情する必要なんて少しもないのよ? あいつら、なにも採ってこないくせに服だけはみじめに汚してきやがって。仕事もしていないのに、なんで服が汚れんのよ。おかげでまた床が汚くなった。サボってるのはわかってるのに、帰る間際にわざと汚してきてんのかしら。ほんと、こざかしい。さ、あんたは早く食べちゃいな」

 「いや、今日はいいや。食欲がないんだ」
 ネスはそう言って、その日は早めに布団に入った。シラユキは「そうかい」と言って、ネスや小人の分の食事もまとめて胃袋に入れてしまった。
朝がた、ネスは馬小屋から出てくる小人たちの姿を眺めていた。ネスは彼らを捕まえていろいろなことを問いただしたかった。

 「なぜ自分に冷たくするようになったのか」
 「労働の時間に、ほんとうはなにをしているのか」
 「ただ単に鉱山から鉱石が取りづらくなってしまっただけなのか」
 「そのせいで帰りが遅くなっているのか」

 でも、家の外に出ていくことはできなかった。七つの小さな背中はすぐに小さくなり、やがて森の緑のなかに消えていった。




 翌日、ネスはシラユキに鉱山がどこにあるかを訊いた。彼女はしぶしぶながらも教えてくれた。

 「なにしに行くんだい?」
 「ちょっと探検したくて」

 シラユキが紙の端に書いてくれた地図から判断するに、鉱山への道はひどく入り組んでいるようだった。ネスは、もしかするとまた森のなかで迷ってしまうのではないかと不安になったが、その心配は杞憂に終わった。

 鉱山にたどり着く前に小人たちの姿を発見したのだ。
 そしてネスは目撃した。

 そこには深い穴があった。小人たちが掘っているのだ。長方形に縦二メートル、横一メートルほどはあるだろうか。小人たちは休むことなく土をかき出し、それを木々のあいだに運び出していた。ただ、黙々と。

 ネスは長く、冷たい息を吐いた。そして静かにきびすを返し、その場をあとにした。



 小人たちはとうとう一片の鉱石も持ち帰ってこなかった。

 ほとんど発狂に近いシラユキの怒号が、家じゅうに響きわたった。シラユキは腕に思い切り力をかけ、彼らを殴った。それは背筋も凍るような暴力の光景だった。シラユキには悪魔が取り憑いているのではないか。ネスはそのとき、本気でそう思った。彼女はなんのためらいもなく、小人たちの身体を痛めつけた。骨の折れるような音が聞こえた。ネスは震えながらその光景を見ていた。そうすることしかできなかった。

 やがて、混沌の隙間からむらさき帽の小人の顔が見えた。彼は、いまにも泣き出しそうに顔をゆがませていた。それは懇願の表情だった。ネスは小さくうなずいた。彼はネスに助けを求めているのではない。仲裁に入り、この暴力を止めてもらいたいのではない。彼が、いや、彼らが僕に求めているのはここから速やかに立ち去ることなのだ。

 ネスは音もたてずに家を出た。扉を閉めてもガラスが割れる音や、人間が力任せに叩きつけられる音が耳に入ってきた。だが、数歩歩くうちにそれも止んだ。

 そう、すべてが止んだのだ。



 町に帰る前に、ネスはあの穴のもとへ訪れた。

 そこにはまだ掘り返されたままの空洞が広がっていた。ネスはそこに自分が見たもの、知ったものをすべて放り入れた。この穴はもうじき塞がるだろう。ネスはこの森のなかでこれから起こる出来事もまた、ここへいっしょに葬られることを願った。

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