どうもデザイナー&トマト農家の妻、いくえです。
どうもはじめまして!デザインの会社『喫茶BEGIN』と、岐阜県高山市で『まるかじり農園』というトマト農園の妻をしています、いくえです。
2021年4月に独立して1年が経ち、色々言葉にしたい思いが募ってきたので、インタビュー形式でみなべさとこさん@satopeminakoに記事にしてもらいました。
割と転職回数が多いデザイナー人生や、デザイナー兼農家の妻として考えているこれからのことお話したので、少しでも興味を持ってもらえたら嬉しいです。
末っ子幼少期時代
ーー まずいくえさんの生い立ちからお聞きしたいのですが、幼少期はどんなお子さんだったんですか?
いくえ:
私の家族は両親と姉の4人家族でした。
小さい時からとにかく活発で、保育園卒業時には身長130cmもあるような元気いっぱいの大きな女の子でした(笑)
体育・図工・音楽が好きで、水泳やピアノなど両親は私がやりたいことは何でもやらせてくれました。
小学校2年生からは水泳と並行して柔道も習い始め、4年生になると姉の影響でバスケにどハマりし、そこからはもうザ・バスケ少女でしたね。
平日の夜は練習、土日はほとんど遠征に行ったり大会があるみたいな生活でした。
バスケット少女時代
ーー まさにバスケ漬けの日々だったんですね。その頃はデザインに興味はあったんですか?
いくえ:
バスケばかりの毎日だったんですが、それでも図工や美術が好きだったので、小学校6年生の文集には将来の夢に「バスケのコーチかデザイナー」と書いていたのを覚えています。
でもやっぱり日々の生活の中では、とにかくバスケ一色でしたね。
中学の部活は弱かったんですが、とにかく負けん気が強かったので常に絶対勝ってやる!と思っていました。1年生の時からレギュラーで、当時のコーチに「お前は1試合15点とる選手にならないとチームが勝てんぞ!」といわれ、火がついたのを覚えています。自分自身は目標達成できて結果1試合で30点取るような選手になっていましたが、それでもチームは勝てなくて…いつも怒っていました。今思うと、自分のことしか考えてなかったんですよね(笑)
進路に悩む高校時代
ーー 1試合で30点はすごいですね!デザイナーについて真剣に考えるようになったのはいつ頃からなんですか?
いくえ:
デザイナーについて真剣に考え始めたのは高校に入ってその後の進路を考えるようになった頃です。
高校でもバスケ部に入ってそれはすごく楽しくて、朝6時から体育館に行って朝練するスラムダンクの世界みたいな充実した生活をしていました。でも勉強にはついていけず、勉強自体は全然楽しくなかったんですよね...。
それで授業中はよく保健室に入り浸ってました。
「だって私が好きなのって体育・図工・音楽じゃん!」って(笑)
進路決定の時期になり、自分の将来について真剣に考えるようになった時、最初に目指そうと思ったのは「管理栄養士」でした。
家族と自分と向き合う時代01
ーー あれ?バスケのコーチでもデザイナーでもなくですか?
いくえ:
そうなんです。それは私の母が関係しているんですが、私が中学2年生頃から母は癌で闘病生活をしていたんです。悪性腫瘍で全身に転移しているような状態で、母は私が中学に入ったくらいから亡くなる高校3年の夏頃まで入退院を繰り返し、東京・岐阜・名古屋と色んな病院を転々としていました。
母が転院するたびに食べていたんですが、病院食ってどこも美味しくないんですよ。
だから、「病院のご飯を変えたい!少しでも美味しいものを食べてほしい!」と思って管理栄養士になりたいと思ったんです。
ーー そんな経緯があったんですね。そして管理栄養士になるための大学を進路に決めたんですか?
いくえ:
いいえ、それが姉の一言によってそうはなりませんでした。
管理栄養士になるための大学に行くって決めたあと、そのことを姉に話したんです。そうしたら
って。姉にそうビシッと言われて言葉を失うと同時に「あぁ、その通りかもしれない」と気づかされました。
じゃあ一体、自分は自分のために何をしたいんだろうと考え直したときに、
と考え、絵を書くことや何かをつくること、人に喜んでもらうことが好きだった私の頭に浮かんだのがデザイナーだったんです。
今思うと、母が自分の夢を叶えた仕事(喫茶店)をしていたから、このような考えになったのかな…なんて思います。
デザイナーを目指す時代
そこからデザイナーになれる大学を探し始めたんですが、ちょうど運良くデザインと管理栄養士の勉強のどちらの学科もある大学を見つけ、そこを受験しようと決めました。
これが高校3年生の夏です。
そこで入試にはデッサンがいることを知ったのですが、ずっとバスケ部だった私はデッサンなんて書いたことありません。田舎の進学校だったので周りに美術系の大学へ行く人はおらず…当時美術部の顧問をしていた永縄先生に志願し美術部に急遽入れてもらいました。今から頑張れば間に合うと背中を押してくれて、入試のためのデッサンの勉強を始めました。
受験までの半年間、その美術部の先生には何から何まで面倒見ていただき、無事念願の大学に合格することができました。
母は受験の直前に亡くなったんですが、亡くなる直前まで、どこからか飛騨に住む美大出身の方を見つけてきては「デッサンを添削してもらっておいで!」と会いに連れていってくれました。
当時、私の家庭の事情を知っていたのに、何も触れずに私のために協力してくださった先生や関わってくださった方に本当に感謝しています。
デザイナー人生の始まりの時代
ーー デザイナーへの第一歩、大学生活はどうでしたか?
いくえ:
すっごく楽しかったです。入学前は“もしデザイン学科が合わなかったら栄養学科の方に編入しよ〜っと”、なんて気持ちもあったんですが、入ってみたらデザイン学科には気の合う仲間ばかりで本当に楽しい大学生活でした。
デザインの勉強は、色彩・絵画・陶芸・レプリカ制作・Webなど芸術に関わる様々な分野も学びました。当時は中古の一番安いMacを買って姉の会社の年賀状なんかも作らせてもらってました。
ーー 就活する際にはどんな軸で考えていたんですか?
いくえ:
大学時代から名古屋にいたので、(私が思う)名古屋で一番センスがよくておしゃれなデザイン事務所に入りたい!って思っていました(笑)
そして出会った会社が「Visknow」(デザイン事務所)でした。
ーーそのVisknowがいくえさんのデザイン人生に大きな影響を与えんですか?
いくえ:
まさにそうです!私が考えるデザインのルーツであり、Visknowの広瀬社長が師匠です。
そうして新卒で憧れのデザイン事務所に入ると、元々師匠の右腕の方が独立するタイミングでした。入社して数ヶ月で会社には私と社長の2人だけの環境になり、スキルも経験もセンスもない私はとにかく必死に何でもやりました。
はじめは定規とカッターでひたすらトンボで紙を切る。次はひたすらパスで画像を抜く…そんな日々でした。
社長のデザインへのこだわりはモチーフを配置する際や文字間のバランスも0.05mmの世界で調整したり、仕事に対してすごく厳しい人でした。
そんなプロフェッショナルな姿を見て、デザインのイロハを学ばせてもらいました。
当時は“失敗してはいけない、認められたい”など尊敬や遠慮が強すぎて萎縮してしまっていて、今となってはもったいなかったなと思います。
直接ご本人には伝えられていませんが、今でもずっと尊敬していて(某有名デザイナーと言われる方々よりも)一番センスが良いデザイナーと思っているのは変わりません。
デザイナーとして駆け出し時代
ーー 特に印象的だった出来事などはありますか?
いくえ:
そこで3年ほど働き、仕事もある程度任せてもらっていたとき、ある商業施設のフリーペーパーを作成していたんです。
デザインが完成して2万冊の製本まで終わったあとに、誤字があったことが分かって。。クライアントはもう大激怒。
もう製本までされているので、解決方法としては2万冊全部の誤字のあった箇所に修正シールを貼ることしかなく、一人で終わる量ではなかったので友達にも頼み込んで、毎日泣きながら修正シールを張っていました。
こんなミスするようじゃ私もうダメだ...とそれまで抱えていたプレッシャーとも重なって、この時心が折れちゃったんですよね。
それで、この一件が何とか片付いたあと、当時“辞めることが責任”と勘違いしていた私は、何を言われてももう限界で、そのまま会社を辞めました。
(今となっては、あのときこそ挽回のチャンスがあったのになと分かりますが。あんな辞め方をしてしまったのは完全に若気の至りとしかいいようがありません...。)
本当に厳しい修行期間で、3年間Visknowで広瀬社長に食らいついたことは私のデザイナー人生にとってかなり大きな影響だったし、今の私の社会人やデザイナーとしての土台ができた大切な時間でした。
ーー いくえさんにもそんな駆け出し時代があったんですね。その後はどうされたんですか?
いくえ:
ちょっとの期間自由にふらふらしてたんですが、前社時代に取引があったweb制作会社の方からお声がけいただき、そこで働き始めました。
この頃から、会社ではなく自分自身にお客さんが付いてくれる実感を抱くようになり、デザイナーとして独立したいと思うようになりました。
そんな思いを例の如く姉に相談してみるとまたしもてバッサリで(笑)
と言われました。
確かにそうだなと、一回地元に帰る決意をし、当時のお客様への挨拶回りや実家のネット環境を整える作業など、準備を進めていましたが
後に父には泣いて謝ることになります。。。
インハウスデザイナー時代
ーー 飛騨に帰ってきたんですよね!?
いくえ:
いえ、それがまたひと騒動あって(笑)
帰る準備は万端だったんですが、これもまた当時のクライアントから
「地元に帰るならその前に一回うちの会社に入ってみない?」
と連絡をいただいたんです。
その会社はウェディングプロデュースをやっているベンチャー企業。
まさか、デザインしかやってこなかったわたしがウェディングの会社に?!ととても驚きました。でも、いくつかお仕事をご一緒する中で社長のアツい人柄や当時の会社のミッション(未来を支える価値ある一日をつくる)に共感したり、そこで働く“人”が、私がアシスタントだった頃からのお付き合いの方も多く、まだペーペーだった私の名前を覚えてくださっていたり、気持ちのいい方ばかりだなと日頃思っていたので、他業種に飛び込むチャレンジをしてみることにしました。
その会社では、ひとりめのインハウスデザイナーとして、営業部・プランナー・人事部・エリアの垣根をすべて一手に、社内の営業資料やパンフレットから実際に結婚式でお客様が使うアイテムのデザインなど何でも作っていました。(時にはヘルプで披露宴会場スタッフもしていました笑)
朝から晩までずっと働いていたんですが、仲間のためにデザインすることが本当に楽しくて全く苦に感じたことはなかったです。
組織を学ぶ時代
ーー 企業のインハウスデザイナーというキャリアはここが初めてだと思うんですが、どんなことが印象的でしたか?
いくえ:
社長が本当に素晴らしい人で、一人一人のいいところを見つけてそこを伸ばしながら働かせてもらえる環境だったので、デザイナーとしてだけでなく組織の人間として自分の得意なことろで、挑戦する経験を重ねることができました。
このことは今までの自分の中での常識やただのデザイナーの枠を超えることができた、すごくありがたい経験でした。
社長から視座を上げるようにと経営戦略会議に入れてもらったり、“コーポレートブランディング室 室長という”新たな役職を与えてもらったりしたことで、ただデザインを作るだけのデザイナーではなく、経営者視点でデザインを考えるという次のステップに導いてもらいました。
この頃は、デザイナーとしても社会人としてもイケイケドンドンで本当に楽しかったなぁという記憶ばかりです。一生懸命働いて一生懸命遊ぶ!そんな毎日を過ごしていました。
家族と自分と向き合う時代02
ーー 飛騨に帰ってきたのは、この後ですか?
いくえ:
はい、すごく充実した毎日を送っていたんですが、突然父の訃報が届きました。
「仕事は楽しいし辞めたくないけれど、実家にも帰らないと...どうしよう」
と姉とも相談して、やっぱり生まれ育った故郷を無くしたくないと思い実家に帰ってくることを決めました。
会社にも想いをそのまま相談したところ、二つ返事で飛騨にいてもリモートワークで働くことを承諾していただきました。
まだリモートワークが世の中に浸透してないコロナ前のことです。
承諾だけじゃなく、所属がはずれて移動がしやすくなったことをいいことに、今月は大阪に…東京に…横浜に…と、月の半分は各地へ出張しながらデザイナーの仕事を続けさせてくれました。
今思うと、色々心配してくていたのかなぁと仲間たちには本当に感謝しきれません。
夫に出会う時代
そんな風に、飛騨と名古屋を行ったり来たりしながら働く生活をし始めて少し経った時、実家の近所のおばあちゃんの紹介で今の夫となる、まるかじり農園の拓ちゃんと出会いました。
両親を亡くし田舎の一軒家にひとりで住む私を心配してよく話にきてくれていたおばあちゃん。「お互いいい年なんだから、気が合えばご飯でもいっておいで〜」と、夫と私それぞれに言っていたんです。恋のキューピットですよね(笑)
犬の散歩のときに意識して畑の前を通っては立ち話するような中になり、拓ちゃんは何だか私が想像してた農業をする人のイメージとは違ったんですよ。いい意味で!
当時は、農業をビジネスとして考えていることにとても驚きました。農業はおじいちゃんとかおばあちゃんがやることで、野菜がどうやって育って、どうやってお金になっているのかも何も知らなかったんです。
そんな風にお互いの仕事の話をすることがとても楽しかったり、拓ちゃんの名刺をつくってあげあり、デートしたりして交際を始め、1年もたたないうちに結婚に至りました。
妊婦&出産&はじめての子育て時代
ーー 結婚後もずっと飛騨と名古屋を行き来する働き方を続けていたんですか?
いくえ:
結婚後も続けていました!でも結婚式の準備を進めていたときに妊娠が発覚しました。今までは自分がどうしたいかで決めてきていたことを、急にお母さんになった自分の働き方・生き方の軸で考えることになります。
もちろん子育てしながら働く事なんてやったことがないので、漠然とした不安とどうしたらいいのか悩んでいた時に、設立したばかりだった株式会社ヒダカラの代表のかなこさんと出会いました。
かなこさんの旦那さんのこうすけさんは、夫の同級生なので元々知っていました。
かなこさんと初めてお会いしたとき、大企業を退社して、保育園児のお子さんが2人もいる中、地元でもない飛騨で起業してバリバリ働いている姿を目の当たりにして、「こんな女性が飛騨にいるんや!すげーー!」と、もう衝撃でした。
当時の会社には子育てしながらバリバリ働いてる女性はいなかったので、かなこさんに出会ったことで「子どもがいるからといってやりたいことを諦めなくていいんだ」と自信を持てた気がしました。
それで、ヒダカラで働くことを決めました。
ーー 地域に根付いたヒダカラでの働き方はどう感じましたか?
いくえ:
自分が今まで培ってきたデザイナーとしてのスキルが全部活かされて、会社の成長に対しても地元の事業者さんに対しても貢献できていることが実感できてとても嬉しかったです。
そして会社のメンバーも9割女性だったんですが、子育てが落ち着き今からの人生にイキイキしている人、好きな副業をしている人、地元の魅力を発信したい人など魅力的な人たちばかりで、一緒に働けてとても楽しいなと感じていました。
ただ仕事に関しては充実していた一方で、子育てと仕事の両立の難しさにぶち当たるようになっていました。
私も夫も両親がいないので、週5フルタイムで働きながらの余裕のない子育てと、どんどん汚れていく部屋を見て、体力と心の限界を感じ、週4時短勤務に勤務形態を変えてもらうなど試させていただいたものの、最終的に独立する選択を選びました。
母として働く時代
ーー 出産は大きなターニングポイントだと思うのですが、いくえさんにとって一番大きな心の変化はどんなことでしたか?
いくえ:
出産を経て仕事と育児のバランスの難しさを痛感したことで、自分自身により向き合うようになりました。
せっかく娘や家族との大事な時間を使って仕事をするんだから、自分が何をやりたいか、そしてやりたくないかをちゃんと考えて仕事をしないとこれからはダメだなって思うようになったんです。
自分に向き合って引き受けるデザインの仕事を精査する意識を持ったら、自分のやりたい仕事が集まってくるようになり、よりチャレンジ精神や提案力が高まっているように感じています。
とはいえ、いただく仕事は一切断らないスタイルなので毎日追われています(笑)
農業にかかわりはじめる時代
ーー 時間と自分の力を発揮するべきことへの意識が変わったんですね!
いくえ:
はい、あとは夫婦のあり方についても、独立したことでいい気付きがありました。
夫は自営業のトマト農家ですが、私は独立するまで彼の事業にはほぼノータッチだったんです。田舎なので周りから嫁は畑手伝わないのか?嫁さんに畑手伝ってもらえ!などの声があることは知っていたので「私には私の仕事がある!」みないな意地みたいなものです。
それが、独立したことで、一緒にいる時間が増え、夫婦での会話が圧倒的に増えました。事業をどうしていきたいかということから、トマトいい感じに育ってるわ〜とか、今こんなことを考えてるんだよねとか、些細なことでもすぐに共有して「じゃあこれやってみよう!」と試行錯誤することがすごく楽しいって思うようになったんです。
そこから、私もだんだん夫がこんなに一生懸命トマト育ててるんだから、ちゃんと伝えなきゃ!みたいな使命感に駆られ、本格的にトマトの箱やチラシを作ったり、EC販売にも挑戦したりとまるかじり農園の一員として動き始めました。
ありがとう!メルカリ時代
ーー 昨年メルカリShopsで始めたECは反響がすごかったですよね!
いくえ:
本当にありがたいことにメルカリさんのおかげでメディア露出もさせてもらって、初挑戦のECで全国のお客様にまるかじり農園のトマトが届けられたことは本当に嬉しかったです。
だからデザインの力で少しでもお客様においしさとわくわくを届けられるよう、パッケージやチラシなどの同梱物にもこだわって作りました。
だって、お客様のお仕事の以前に自分の家族のデザインがちゃんとなってなかったら恥ずかしいじゃないですか?(笑)
多くの反響をいただけたことはもちろん嬉しかったのですが、なによりも7年間地道に丁寧にトマト作りに向き合ってきた拓ちゃんの努力が報われて、そこに私も自分の得意なことを活かして貢献できたことが本当に嬉しいご褒美のような経験でした。
農家の妻兼デザイナー、これから挑戦したい3つのこと
ーー この一件で、いくえさんのまるかじり農園に対する思いに火が着いたんですね!これからはどんなことに挑戦したいと思っているんですか?
いくえ:
やりたいことは大きく3つあります!
■挑戦したいこと[1]
まず1つ目はまるかじり農園の実店舗を持ちたいと思っています。
ECをきっかけに売り上げも知名度も上がったんですが、ここを今後も伸ばしていきたいかって言えばちょっとそうではないんです。
ECをはじめてから去年の出来事を振り返り、そこに可能性と課題が見えた今、私たちの暮らしている飛騨高山で地元の色んなおいしい野菜をまるかじりできる実店舗を作りたいと思うようになりました。
この3つのやりたいことを叶えるために実店舗を持ちたいと思っていて、去年の年末からすこしずつ動き出しているところです。
■挑戦したいこと[2]
そして2つ目はまるかじり農園でアルバイトをしてくれているナナちゃんのことです。
彼女とは共通の知人が誘ってくれた梅狩りの会で出会いました。
ナナちゃんは大阪出身ですが旦那さんの地元が飛騨で、この土地を好きになってくれて移住してきた若者です。
いずれ自分でも農家をやりたいと思っていて、今は拓ちゃんの元でトマト作りを手伝ってくれているんですが、草木染めも勉強していて地域でワークショップをしたり、よそから来た自分を快く受け入れてくれた飛騨に恩返しがしたいと言って本当に色んなことに一生懸命で素直で才能に溢れる本当に素晴らしい人なんです。
こんな素敵な子がせっかくまるかじり農園に関わってくれているんだから、もっともっ彼女が輝ける場を提供したい!それが絶対必要だし私たちの責務や!と思うようになったんです。
色んな可能性をナナちゃんの好きなように伸ばしてほしいと思って、今年度からデザインの仕事を教えたり、コミュニティというものを学びたくて、ナエドコという食や農との関わり方を考えるコーチング・ワークショッププログラムにも一緒に参加しています。
参加してよかったなぁと感じるのは、全国各地の「農」に対して憧れとか、それぞれ自分に合った関わり方で暮らしそのものに「農」を取り入れている仲間に出会えたことです。
(ナエドコに関しては、「農業」と言い切らないのもとても意味があるなぁと感じてます。)
やっぱり「ガチ農家」の嫁ともなると、それらはあたりまえで、農協云々とか今年はどのくらい売れるかな…ほかの農家さんはこんなことしてる…なんて他所様と比べてばかりで商売としての農業みたいに考えてしまっていたのが、ハッとされられました。
ナエドコの仲間のおかげで、農ある暮らしを楽しむことや、自分らしく農業に関わることに改めて向き合うことができ、原点に戻ることができたのです。
■挑戦したいこと[3]
そして3つ目は、農家の妻のコミュニティ作りです。
私は今まで地域内外問わず企業や個人の方のデザインをメインでお仕事していましたが、まるかじり農園のデザインも始めるようになって「農家の妻がデザインで旦那さんをサポートできたらすごくいいんじゃない?」って思うようになったんです。(もちろん逆もしかり!)
デザイナーって何かを作るだけじゃなくて思考自体が役に立つってことがいっぱいあるんです。それも独立してからはっきりと感じるようになった大きな気付きの1つです。
夫婦や家族と同じように農作業を一緒にするというのももちろん素敵なパートナーシップだともちろん思っています。
でも、もしそれだけじゃなく一番身近で“農業そのもの”を見てきた人がデザインする力を身につけて、その農作物のチラシや同梱物、ECサイト用のバナー作成などを通して魅力を伝えることができたら。そんないいことないなと思うんです。なぜなら、一番近くで一番その野菜や人(生産者)を理解している人だから。
技術的に上手いへたはもちろんありますが、デザインって想いやおいしいを表現するお手伝いもできるから。
旦那さんのことも農場のことも一番近くで見ている人だから、新しい視点で伝えたい想いを考えられたり、あたりまえになっていることの特別さに気づけたり、今までの過程など含めて酸いも甘いも理解しているからこそ、最高の事業パートナーになるんじゃないかなって思っているんです。
こんなツイートしてみたら、興味あります!というようなコメントもいただきました。
農家の妻がデザインスキルを身に着けたら絶対面白いし、もっともっと農業って楽しくなっていくと思うんです!そんな人たちが増えたらいいなと思っています。
関わってくれる人が身近なあたりまえにしばられず、各々がやりたいと思うこと、こうなりたいと思うことをのびのびできるような、きっかけになれる人にもなれたらな…なんて思ってます。
たぶん私はそうやって人と関わっていくことが好きなんだと思います。
ーー“場作り”というのがいくえさんのやりたいこと全てに関係しているように感じました。デザインで魅力を引き出す力、表現する力があるいくえさんが中心となった“場作り”、とても楽しみです!お話しありがとうございました!
【インタビュー&執筆】
みなべさとこ
Twitter:@satopeminako