子どもを完璧主義の犠牲にしない
育児には、色々とトラブルがつきものでして。
私が最初にその洗礼を受けたのは、生後3日目のこと。
新生児黄疸の検査に引っかかった。
黄疸とは、血液中のビリルビンと呼ばれる物質が多くなることで、肌が黄色くなる病気。
私の育児のやり方に何か問題があったのではなく、新生児には、ビリルビンの量が規定を超えることがよくあるらしい。
重症にならないように、きちんと治療すれば問題ない。
ただ、我が子が黄疸になってしまったことについて、私は自分が許せなかった。
治療のために、青白い蛍光ランプを浴びる我が子を見て、随分と落ち込んだ。
生後2ヶ月になると、またトラブルがあった。
寝ている時の向き癖が強くて、いつの間にか頭の形が歪んでしまっていた。
絶壁というほどでもないが、触ると少し斜めに歪んでいる。
まだ髪の毛が薄いから、余計に気になった。
整形外科の先生に診てもらったが、病的に歪んでいるわけではなく、綺麗な方だと言われた。
美容的に気になる場合は、保険適用外でヘルメット治療をする人もいる。
高額なので断念した。
丸い頭にしてあげられなかったのが、ショックで、しばらくの間とても落ち込んだ。
赤ちゃんの向き癖は、お腹の中にいる時の向き癖にも関係していて、簡単には治らないと病院の先生に言われた。
(なるほど。10ヶ月近く続けてきた癖なら、治らないのも仕方がない。)
寝っぱなしでなくなる頃には、頭の歪みは少しマシになることもあるらしい。
それにしても、どうして、私は完璧じゃないんだろう。
大人になる過程で、自分を社会に適合させていくと、自分が平均的であることを当然と思ようになってしまった。
皆と同じことができて、当然。
決まった時間に起きて、決まった時間に電車に乗って出社して、仕事をこなす。
それは、できて当然のこと。
でも、考えてみると、できないことはいくらでもある。
平均的でない部分も、たくさんある。
学生時代は、数学と体育が苦手だった。
特に体育。
幼稚園の頃から、自分が周りと比べて運動が苦手だという意識があった。
コンプレックスがあったし、体育の授業は嫌いだったけど、そんな自分を許せないとまでは思わなかった。
あるいは、日本人女性の平均身長は157〜158センチと言うが、私はこれより小さい。
クラスで前から二番目ぐらいだった。
そのことで、殊更に落ち込んだことはない。
子どもの頃は、等身大の自分を受け入れられていたのに。
いつからか、社会にしがみつくために、社会が求める「普通の人間」ができることを、全てこなさなければと思うようになった。
「普通の母親」ならできているはずの、全ての事を、できるようにならなければ。
はて、「普通の母親」とは、何か。
(そんなものは幻想なのだと、心のどこかで気づいているのに。)
我が子に対して落ち込んでいるのではない。
自分が、100%完璧でトラブルのない育児を行えなかったことに対して、落ち込んでいる。
しかし、こんな私を見て、子どもはどう思うだろうか。
子どもは、最初は何も分かっていない。
大人たちの反応を見て、「これは褒められることなんだ」「これは恥ずかしいことなんだ」「これはダメなことなんだ」と学習していく。
親が、自分の育児について落ち込んでいるなんて、それは子どもにとって、とても辛いことだ。
我が子に、100%完璧でトラブルのない人生を教えようとは思わない。
そりゃあ、つまずきの少ない人生であってほしいと願うけど。
私自身は、完璧な人生を自分で願ったけど。
当然、願ったって、そんなものは叶わない。
我が子には、たとえ不完全でトラブル続きだとしても、それを乗り越えるだけの力をつけてほしい。
それを楽しめるだけの心の余裕を持ってほしい。
子どもにずっと幸せでいて欲しいなら、人生のトラブルを取り除いてあげるよりも、トラブルに強くさせた方が、ずっと現実的だ。
親が幸福を与え続けるよりも、自分で幸福を見つけ、幸福を作り出せる人間になってもらった方が良い。
それならば、まずは親である私が、トラブルに強くならなければ。
100%完璧でないことに、動じないようにしなければ。
子どもを、親の完璧主義の犠牲にしてしまうのは可哀想だ。