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第3の時間「生きられる時間」1/2


手段の時間

人は毎日忙しく仕事しています。
3ヶ月後〆切のプロジェクトをうまく納めるため、あるいは今期の目標を達成するため、多くの時間とエネルギーを投入します。
プロジェクトが終われば達成感を感じますし、外からの評価に一喜一憂します。がそれも束の間、すぐに次の目標が立てられ、新たな目標に向けた日常が始まります。

ここに流れているのは「手段の時間」です。
未来に設けられた目的を達成するために、現在の時間が手段として使われます。現在は、未来に向けた通過点にすぎず、未完成で不完全な状態にすぎません。

ここでは、目的達成のため時間効率が追求されます。投入した時間に対する成果や満足を最大化するように行動が選択されますが、それが「タイパ」です。タイパとは「手段の時間」を使う人が共通してもつ行動パターンです。

ここで問題なのは、「タイパ」が仕事ばかりか、ゲームや映画鑑賞など本来遊びの時間であるはずの時間にも持ち込まれるようになり、睡眠以外すべての時間が「手段の時間」に覆われてしまっていることです。

我々は全面的に、不完全な現在に生きることになり、物足りなさや虚しさから逃れられなくなっています。

遊びの時間

そのため、我々には「遊び」が求められています。
本来の遊びとは、遊びに夢中になって、遊び以外のことを忘れている時間のことです。遊ぶ人は自由に遊び始め、遊ぶためだけに時間を使います。

遊びは、未来に縛られた「手段の時間」とは異なり、遊ぶことそのこと自体が目的で、遊びが自己目的になっています。「手段の時間」が未来を目的にしているのに対して、未来ではなく、現在を目的に時間を使うのが「遊びの時間」での本質です。

その中でも踊りは、究極の遊びといえます。踊りは、未来に何か残すのではなく、踊っている現在がまさに本番。身体だけを頼りに現在の時空に自由に表現していきます。
古来、祭りで踊りが重視されてきたのにも理由があります。踊りは、日常に閉じ込められた自分を解放して自分を超える契機になり、また、解放された人達と共に踊ることで、日常(手段の時間)とは異なる共感が得られるからです。それが祭りを、特別な時間に昇華させていきます。

この二つの時間「手段の時間」と「遊びの時間」は、我々の時間の使い方に一石を投じます。それは単にワークライフバランスや、日常の「時間割」といった時間管理と違い、時間に対する我々の”姿勢”を問うものです。

「キーネーシス」と「エネルゲイア」

この二つの時間は、アリストテレスの「キーネーシス」と「エネルゲイア」に対応しています。
「キーネーシス」とは、起点と終点がある運動のことです。終点が目的であり、その過程は未完成で何かが足りない状態です。そこで、終点への移動や達成のため効率やスピードが重視されます。これは「手段の時間」の活動に他なりません。

一方、「エネルゲイア」とは始点と終点のない活動で、目的が手段自体の内にあります。まさに「遊びの時間」といえます。

子どもは、実に楽しそうに絵を描きます。絵を描くことが好きで夢中で絵を描いている(エネルゲイア)状態です。それが、先生に褒められることを覚えると、褒められることが目的になって絵を描く(キーネーシス)ようになります。同じ活動をしていても、時間の使い方は正反対です。

活動(絵を描くこと)と目的(褒められること)が分離しているということは、活動は常に手段になっているので代替可能な軽さをもち、また常に未だ達成しない不足状態にあるので、その不足を埋めようと駆り立てられます。
それが反転して活動自体が目的になると、不足を感じることなく、活動そのものを楽しめるようになります。

幸福とは、このような不足に駆り立てられる不自由から抜け出した状態だといえます。そこでは未来の目標に向けて時間を使う必要もなく、現在だけが目の前に置かれている「エネルゲイア」の状態です。
そして、「エネルゲイア」こそ人間固有の活動で、完全な行為だといいます。

生きられる時間

ところで、「エネルゲイア」として活動しているのは、「遊びの時間」だけでしょうか。確かに「遊びの時間」は、遊んでいる現在を目的にした時間です。しかし、「遊びの時間」は夢から覚めるように、すぐに終わりを迎えます。遊んでいる時のヒリヒリした感じや、踊っている時のエクスタシーも、それが終わると日常に戻っていきます。

我々は「遊びの時間」以外に「エネルゲイア」を体験できないのでしょうか?

(続く)


(丸田一葉)


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