故郷のまちについて思うこと
ここ数年、八戸のまちなかが大きく変化しつつある。
私は青森県八戸市に生まれ、18歳までを過ごした。
大学進学と同時に八戸を離れてから、もうすぐ9年になろうとしている。
そして現在は、東京で建築設計の仕事をしている。
建築やまちづくりに携わる人間として、八戸のまちについて最近なんとなく思っていることを書いてみようと思う。
八戸の中心街の成り立ち
八戸市は古くから漁業で栄えた港町である。
市の中心市街地は、藩政時代から続いた城下町の都市計画の名残であり、市役所などの行政施設や、百貨店や飲食店などの商業施設が集約されている。
よく県外の人に勘違いされやすいのだが、八戸の中心街は新幹線の停車するJR八戸駅前にあるのではなく、そこからローカル線で二駅の本八戸駅の周辺である。
八戸で遊ぶといったら、おそらくこの中心街一択だ。
八戸市民には、遊びの誘いに「”まち”行こう」と言うだけで通じる。
高校生時代はゲームセンターでプリクラを撮って、たい焼きを食べながら帰りのバスを待つのが日常だった。
そして大人になった今は、(人口に対して多すぎるんじゃないかというくらいの)飲み屋がひしめく横丁でお酒を飲む。
八戸の盛り場は、やはり今も昔もこの"まち"=中心街なのだ。
これから時系列に沿って、少し中心街の変化を辿っていきたい。
2011年、はっちがオープン
「八戸ポータルミュージアムはっち」の開業は、中心街に大きな変化をもたらした。
「はっち」とは、八戸の観光情報を発信する文化複合施設である。
市外から訪れる人に向けて八戸の情報を発信するだけでなく、併設されたシアターやギャラリーがアーティストや市民の活動の場にもなっていて、地域の資源や営みををまるっと展示するというのが施設のコンセプトだ。
はっちから受けた影響
建設中だった当時私は高校生で、毎日この工事現場を横目に通学していた。
昔ながらの百貨店やシャッターを閉めた店舗、空きテナントが目立つ寂れた街の中に、むくむく立ち上がっていくガラス張りの箱を見ながら、
「この建物ができたら、このまちがなんかいい方向に変わるかもしれないなあ」とぼんやり考えていた。
そしてそのぼんやりとした考えは、やがて建築や都市への憧れのようなものに変わっていき、
高校3年まで「手に職つけたい」「食いっぱぐれたくない」という中途半端な理由で進路希望調査に医療系の大学・学科を書き続けていた私は、
センター試験の直前に急ハンドルを切って進路変更し、建築学科へ進むことにしたのだった。
はっちがオープンしたのは2011年2月11日。
それから間も無く、3月11日に東日本大震災が発生した。
オープン1ヶ月後に震災が起きて避難所として使われることになったはっちは、今では観光で訪れる人たちだけでなく市民にも親しまれる存在として、確実に地域に根付いている。
3.11と同時に高校を卒業した私は、八戸を出てから大学・大学院と合わせて6年間、建築意匠を学んだ。
その間帰って来るのは盆と正月の年に2回くらいだったけれど、地元にいる頃はダサくて大嫌いだと思っていた八戸のまちに対して、時間を経るごとに愛着を持てるようになっていった。
2016年、八戸ブックセンターがオープン。
はっちから道路を挟んですぐ向かいの場所に、「八戸ブックセンター」という施設ができた。
ここは全国でも珍しい「行政が運営する書店」である。
この場所ができたことで初めて知ったのだが、八戸市は「本のまち」というスローガンを掲げ、本を通した文化醸成やまちづくりに力を入れている。
民営の書店では売れ筋から外れるという理由からあまり取り扱われない人文・哲学・美術・デザイン・アート系の書籍を、ここではメインに扱うことで、市民の知的好奇心を刺激し、新たな文化を発見するきっかけを作るというのが狙いだ。
ブックセンターのオープンから1年後。
私はというと、OpenAという建築設計事務所に就職した。
リノベーションなどの設計を軸にしつつ、最近では公共空間の再生やまちづくりなどにも活動を展開している事務所である。
学生時代から、新しく何かを作るよりも、既存の場所や空間に対して、土地の文脈を読み解きながら進めていくような設計のプロセスに興味があった。
大学院生の時にオープンデスクに行っていた縁で、スタッフとして拾ってもらうことになった。
OpenAでは「公共R不動産」という、行政の所有する遊休不動産とそれを使いたい民間事業者をマッチングするメディアの運営も行なっており、私はこれの一員でもある。
サイトでは公民連携の良い事例を取り上げて紹介したりもしている。
昨年この公共R不動産として、八戸ブックセンターを取材させていただいた。
2018年、マチニワがオープン
ブックセンターの開業から約2年半後、半屋外型のイベントスペースである「八戸マチナカ広場 マチニワ」が開業した。
はっちの道路を挟んで真向かい、ブックセンターとの間に位置している。
この場所ができたことにより、はっちからブックセンターや横丁通りへの通り抜けができるようになり、中心街全体の回遊性がぐっと上がった。
そして、
2019年現在、中心街では新美術館の計画が進行中だ。
この施設の設計者を決めるプロポーザルが行われたのは2017年の初め。
青森県立美術館を設計した青木淳さんが審査員長を務めるということで、建築業界ではかなり話題になっていたし、とても競争率の高いプロポーザルだったと思う。
私もどきどきしながら注目していたけれど、選ばれたのは「学びの拠点としてのラーニングセンター」をコンセプトにした、西澤徹夫さん・浅子佳英さん・森純平さんのチームによる設計案だった。
八戸にすでにある文化資源、例えば三社大祭や朝市や横丁などの文化に対して、新たな視点を与えて価値を創出するというものだ。
(画像:八戸市HPより)
一見、美術館らしからぬコンセプト。
確かに八戸は青森市や弘前市と比べたら、遺跡もお城もないし、文化的なわかりやすさや派手さはない。
だけれど、市民が地域の営みを客観的に見つめ直し、新たな八戸を発見しながら、自分たちの手で価値化し、文化たらしめていくというようなプロセスが、とても腑に落ちたし、八戸らしいと思った。
ちなみに、私が新美術館の考え方について「腑に落ちた」のは、この記事を読んでのことである。
八戸市で長年子供たちへの版画教育を行ってきた、坂本小九郎氏に対する設計チームからのインタビュー。
建築の専門メディアでの記事だが八戸の人はよかったら読んでみて欲しい。
子どもの頃、学校で一心不乱に彫っていた版画には、こんな意味があったのかと、時を経て繋がる思いがした。
そして、この新美術館は昨年度実施設計を終え、今夏着工を迎えた。
現在少しずつ工事が進められている。
が、しかし。
まさに今美術館が建設中であるということを、実際八戸に住んでいる人たちはどれくらい知っているのだろうか?
気になって周囲の人々に聞いてみたところ、
少なくとも私の親や親戚・友人たち(市内や近隣で仕事をしている)は、その事実についてほとんど知らなかった。
楽観的な見方かもしれないが、新美術館ができることで中心街への来場者数は増加し、まちは賑やかになるはずだ。
これから自分の住むまちが、もっと楽しくなるかもしれないのに、
それを知ろうとしない/関わろうとしない状況をみて、(誠に勝手ながら)
すごくもったいないというか、もどかしい気持ちになってしまったのだ。
近接する公共施設と、まちの全体像の見えにくさ
ただ、そんな風に市民がまちの動きを知らないという事実も、無理もない。
なぜならば中心街には、公共施設が連続して、且つこんなに近接して建てられているにもかかわらず、それらをまとめて見られるサイトも、メディアもないのだ。
せっかくほどよいスケールで公共施設と商業店舗が点在しているのに、
エリアとしてブランディングされていないがために、まちの全体像がとても見えにくい。
新美術館の完成は、2011年のはっちのオープンから続いてきた中心街における公共プロジェクトの「最後の1ピース」だ。
ただ今のままでは、新美術館は盛り上がっても、既存の施設が今よりも積極的に使われるようになるというアクションは、生まれないと思う。
もっと八戸の人たちがまちを楽しんで使い倒すためには、
これらの施設をきちんと繋げて、その情報を「見える化」すること。
まちで起きていることに対して気軽に知ることができたり、いくつかある施設もこうやって使ったらいいんだとわかるようになれば、誰でもまちの中に自分の関わりしろがあると思えるようになるのではと思う。
ーーー
さて、ここまでごちゃごちゃと書いたものの、
結局のところ、私はまちの中に、自分の居場所を作りたいのかもしれない。
じゃあ「居場所を作る」ってなんだといえば、
それは単に友達が多いとか、知ってる店が多いとかいうことじゃなくて
隅々までまちの「使い方」を知っているということなんじゃないかと思っている。
まちという公共の空間やシステムを、個人が客体として享受するだけでなく、だれしもが主体となってまちの使い方を知る。
そしてその使い方をみんなで共有すれば、人々が今よりもっと主体的に生活を楽しむという風景が、八戸でも作れるような気がするのだ。
そのために、何かできることはないかなーと、考えている。
ーーー
以上、八戸のまちについて今考えていること、でした。
思ったより長文になってしまったので...
「まちの使い方を知る」ためのアイデアについては、次の回から書いていきたいと思います。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
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