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『パターソン』当たり前の日常に潜む表現者たちが勇気をくれる
ジム・ジャームッシュ監督、アダム・ドライバー主演。
2017年日本公開当時、僕は大学四年生の秋を迎えようとしていた。モラトリアムを生かし、SF大作からミニシアター系の作品まで、広範囲(かつ表面的)に映画を消費していた僕にとって、ジム・ジャームッシュ監督の新作公開に関する話題は勿論耳に入ってきた。
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』『コーヒーアンドシガレッツ』『ナイト・オン・ザ・プラネット』辺りは観ていた。静かで淡々と進行するがクスリとジョークが仕込まれている空気感や、視覚的にクールな印象を感じ取ることはできたが、正直なところいずれも退屈だなあ、イマイチ肌に合わない監督だという認識でいた。
とはいえデートには持ってこいのお洒落映画であることには間違いないので、当時のガールフレンドと劇場に観に行った。それなりに話題の映画だったので期待していたのだが、退屈すぎてあくびが出た、というのが当時の僕の感想であった。月、火、水、とこの辺りで眠くなり、気付けばバカな犬が手帳をぐしゃぐしゃにしてしまっており、少ししてエンドロールを迎えた。
帰り道、何が伝えたかったんだろう?と彼女に話を振ると、「バスやパブや手帳は主人公とトラブルを起こしたけど、奥さんだけは最後まで一緒に居たでしょう?それでいいのよ。」と感想を述べていて、浅はかな僕はなるほど確かにそうだな、とその時は安易に納得していたが、それだけの話ならばこの映画が高く評価されていることに関してはやはりなおさら理解できなかった。
比して、僕は同年公開の『ララランド』の虜であった。俳優やジャズバーの経営を夢見る若者達が巡り合い、葛藤し、別れ、夢を叶えるストーリーと華やかな映像とそれに大変マッチした壮大な音楽に魅了された。何度も劇場に足を運んだし、オーケストラの生演奏付き上映も観に行くほどであった。
僕は、それなりに映画を色々観てきたつもりでいる。そして、パーソナルな分析ではあるけれど、自らの経験してきた感情と現在置かれている環境に対する苦悩こそが映画鑑賞の際に鑑賞者の評価を大きく左右するという考えに辿り着いた。大学四年生であった僕は就職活動真っ只中だったため、現実的に飯を食っていける仕事(所謂ライスワーク)の獲得に必死だった。一方で、ライフワークとして芸術に没頭できる人間への憧憬が、心中で相対的に浮き彫りになっていることを認めざるを得なかった。(結果として今となってはサラリーマンとしてうだつの上がらない日々を送っている僕が、幸せなのか否かについては自分自身わからない。)
そんな当時の自分が巡り会ったのが演劇とジャズに没頭し、成功への糸口を掴むべく苦悩するミアとセブのストーリーであったならば、僕がこの映画に恋に落ちるのは必然だったのだろう(デイミアン・チャゼルとジャスティス・ハーウィッツらがジャズバンドをしていた頃からの情熱が映画という形で花開いたという背景も相まって)。
話が脱線したけれども、先日3年越しに偶然2回目のパターソンを鑑賞する機会があった。かつて起伏がなく退屈と感じたストーリーに僕は心を打たれ、とても感動した。僕の中の何が変わったんだろう?
思うに、モラトリアム期であった当時の怠惰な僕と、労働者でありながら詩を書くパターソンの境遇は全く逆で、共感できる要素を僕のそれまでの人生は内包していなかったのが起因していた。
夜中までゲーム、借りてきた映画を観て、昼に目を覚まし、夕方研究室に顔を出し、適当にパソコンを弄って帰る。一方で、毎日決まった時間に目覚め、遅くまで働き、夜は犬の散歩。疲れた身体と精神で、合間の時間では詩を紡ぐパターソン。
この映画は、のんびりとした何気ない毎日を捉えた作品であるという意見が多数ではないかと思う。しかし、ギターやマフィン作りやペイントを楽しむパターソンの奥さんをはじめとして、詩人の女の子(water falls)や、ランドリーで遭遇したラッパーなど、各々が『表現者』
として存在しており、彼女らのその姿は非常に輝かしく、自分の発信する表現にとても自信を持っているように見える。無論、パターソンも世間に発信するタイプではないが、表現者の1人である。彼は世間に自らの作品を発信することに重きを置いておらず、自分自身から生まれた詩と1対1で向き合う。
グラスに注ぎ続けた結果溢れ出す感情を詩に託す営みが、当たり前に溶け込んでいる日常に胸を打たれた。また、僕自身もパターソンのように、仕事をこなす一方で表現することに当たり前に向き合っても良いのだと、背中を押される。
未熟者な今の僕よりも更に大未熟者であった僕は気付かなかったが、この映画は日常に潜む表現者へハッパをかけてくれたのだ。
僕らもきっと彼らのうちの1人だし、その溢れ出す表現こそが本物の芸術なのだと勇気をもらえるのだ。