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終点のひとつ前、
あぁ、今が夜でほんとうによかった。
涙が暗闇に溶けて消えていってくれる。我慢しようにも出来ないんだ。こんなの初めてなんだ。とても悲しくて仕方ないんだ。
このまま溶けて夜になりたい。できればそう、みんなが眠ってしまっているうちに。
柄にもなく、そう思ってしまったの。
皆んなが帰って静まりかえったオフィス。何時間くらい残業したのだろう。時計の針は怖いので見ないようにしていた。疲れは感じていなかったものの同じ単語の漢字を3回間違えたところで私は自分の限界を感じ、まだまだ残っている仕事の山を無視するように会社をでた。
いつもと同じ日々だ。この生活に慣れてしまえば疲れすら日常になってしまう。
混んでいる満員電車に揺られ、私はひたすらに家に向かう。その行動は完全に脳にインプットされていて、きっと無意識でも家に着く事が出来るだろう。
どんどんと都心を離れるに比例して乗客が減っていく車内。4人掛けの窓際の席が一つ空き、誰も座らないようなので私は深く腰を掛ける。決していい座り心地とは言えない椅子なのに、座った途端頭から足までまるで鉛のように重く感じた。そこで初めて自分が疲れ果てていたことに気付いた。
ポケットに入れていたスマホのバイブが鳴る。散々仕事でパソコンの画面を見ているせいか、スマホのチカチカした画面を見る気にもならなくて私はそっと目を閉じた。
列車の車輪が回る度に程よく揺れるシート。アナウンスが鳴る度にまた1人、また1人と乗客は降りていく。なんだか置いていかれているような気持ちになってしまう。こんなところで焦燥感を抱いたって私の降りる駅は終点だ。私は最後まで降りられないんだ。一度乗ってしまったら、もう。
ほんの少し眠ってしまったようだ。次に目を開けた時には電車はガランと空いていてどうやらこの車両には私と向かいに少年が居るだけになってしまった。目がボヤけて電光掲示板は見えないが列車はまだ進んでいる。まだ最寄り駅まではかかるだろう。
もう一度瞼を閉じると簡単に睡魔がやってくる。どうか今度は終点まで。目は覚めないでくれ。目を覚ましたくないんだ。何もかも見たくないんだ。もうわたしはつかれたの、ほんとうに。
左肩がじんわりと温かい。何かに触れてる感覚。それは列車が揺れる度に私の左側を支えてくれていて。誰かに支えてもらうなんて、久しぶりだ。だっていつもはひとりでちゃんと立っていないといけなかった。それが大人だから。それが私だから。それが強さだと思っていたから。
そこまで考えて私はハッとなって目が覚めた。隣の人に思いっきり寄り掛かって肩に顔を乗せている状況に驚く前に反射的に姿勢を正す。
「ごめんなさい!」
そう言って隣を見ると、なんだか見覚えのある顔。そうか、先ほど向かいにいた少年か。少年は手に持っている文庫本に目をやったまま「いえ」と短く答えた。
「ほんとうにすみませんでした」
そう言って気まずさから窓に視線を移した。暗くて外の様子がよくわからない。時間的にもあと何駅かで終点だろう。席を移ることも考えたけれど露骨かな、とも思うしとグルグルと考えを巡らせていると少年が「起こしましょうか?」と声を掛けてきた。
「えっ?」
突拍子もない提案に耳を疑ってしまう。
「最寄り言ってもらえれば起こしますよ。僕、終点なんで」
少年は文庫本から目を離さずそう言った。「私も終点なんで」と言えば良かったのに私の口は何故か考える前に終点のひとつ前の駅を言っていた。
少年はようやくこちらを見てゆっくりと頷いた。なんで咄嗟に嘘をついてしまったんだろう。こんな状況で眠れるわけがなかったけれど私は逃げるように目を瞑った。
「寄り掛かってもいいですよ」
どうしてだろう。どうしてこんなにも少年の言葉は私を楽にするのだろう。私は遠慮がちに少年に寄りかかる。またじんわりと滲む温かさ。たった今知り合った赤の他人の私たちなのに。なんでこんなにも懐かしい感じがするのだろう。本のページをめくる度にほんの少し揺れるその存在。
どうしてこんなにも、やさしいのだろう。
どうしてわたし、こんなにも泣きたくなっているのだろう。
「おきてください」
少年の声が頭の上から聞こえる。あぁ、私また寝てしまっていたのかと目を擦る。
「次、最寄りですよ」
「あ、ありがとう……」
「いえ」
相変わらず視線はこちらではなく本に向かったままだ。
「あ、あの」
「はい」
「本当にありがとう。おかげですごくよく眠れました」
伝わったかな。どうだろう。やっぱりこちらを向いてはくれなかったけどなんとなく少年の表情が和らいだように感じた。
「……疲れていたんだな、と思って。寄りかかる人がいないと眠るのも大変そうだったので。むしろ迷惑でしたらすみませんでした」
向かいに座っていた時に私の頭はフラフラと揺れて、今にも隣の椅子に倒れ込んでしまいそうだったと説明してくれた。
その時アナウンスが鳴る。終点のひとつ前の駅に着くために速度がどんどん落ちていくのがわかる。
「これでやっと降りれますね」
そうか、私はいつだって途中下車できたんだよな。終点じゃなくても、最寄りじゃなくても降りる駅は自分でいつだって決める事は出来たんだ。ただいつも通りが壊れるのが嫌だっただけなんだ。踏み込んでしまえばこんなにも簡単に私は列車を降りることが出来るんだ。
「あの、ほんとうにありがとう」
「僕が勝手にやったことなので」
列車の揺れが止まった。アナウンスと共にドアが開く。
降りようと少年の前を通ろうとした時に、少年が不意にこちらを向いた。
「……お疲れ様でした」
短くそういうと照れ臭そうに本に目を向ける。
「ありがとう」
最後にもう一度そう伝えホームへ降りる。列車のドアが閉まりゆっくりと進みだす。
名残惜しいわけではない。もう一度会いたいわけではない。悲しいわけでもない。けれどなんでだろう。胸が苦しくて涙が溢れて止まらなくて。
疲れていたのかもしれない。
辛かったのかもしれない。
泣きたかったのかもしれない。
ほんとうは、ずっとずっと。
ありがとう。
誰もいない線路に向かってお辞儀をひとつして私は改札へ向かう。
こじんまりとした駅の外は溶けてしまうような暗闇。あぁ、今が夜で良かった。たくさん泣いてもきっと誰にもバレないだろう。
ここはそう、終点のひとつまえ。
自分で決めた、到着地。
少年は今頃終点へ着いただろうか。
きっともう、少年とは会えないだろう。
そんな気がしてるんだ。
私は歩く。暗闇の中をしっかり自分の足で歩いていく。歩いた先になにがあるか未だわからないけれど、きっと日常よりも良いものがあるはずだ。
万が一、億が一、少年ともう一度会うことができたのならあの時読んでいた本のタイトルを聞こう、なーんて。
ここは終点のひとつまえ。
途中下車したっていいんだ。
道はどこまでも、そう最後まで繋がっているのだから。