ヘッドライト
どうにもならない夜だったのだ。
一筋の光も見えない暗闇だったのだ。
毎日通ってきた道が急に知らない景色みたいに思えてしまったのだ。
確かに一歩ずつ歩いてきた道なのに。
いつのまにかまたこの場所にいる。
私は、ずっとこのまま生きていくのだろうか。
私は、ずっとここで生きていくのだろうか。
私は、生きていたいのだろうか。
暗闇の中、私の方にヘッドライトの明かりが近づいてくる。眩しくて細めた目に映るのは、今の絶望から抜け出せるたった一つの希望だった。
これはもしかして救いなんじゃないだろうか。
もしあのヘッドライトに飛び込むことが出来たのなら私は救われるんじゃないだろうか。
駄目だ。そんなの、駄目だ。
迷惑をかけるやり方はだめなんだ。
私は散々迷惑をかけて生きてきた。
だから最期くらい、誰にも迷惑をかけずに消えたい。じゃあ、どうしたら。どうしたら私は死ねるんだ。
フラフラと車道に向かう身体を必死に抑えて前へと歩く。ゆっくり、一歩ずつ。
容赦なく後ろからどんどん追い抜かされていくと、なんだか置いていかれてしまいそうで心が焦り出した。頼む、置いて行かないでくれ。私を、1人にしないでくれ。
ひとりになった瞬間、しにたくてたまらなくなってしまうんだ。
歩道の真ん中で立ち止まり、前屈みになりながら深呼吸をした。落ち着け、そんなことばかり考えてはダメなんだ。必死に気持ちを抑え込もうとしていると、後ろから大きな舌打ちが聞こえた。振り向くと少年が面倒臭そうに自転車から降りているところだった。
「オジサン、どうしたの?」
物怖じともしないその声。顔は暗くてよく見えないが、なんだか昔を思い出すような懐かしい
声だった。私はゆっくりと身体を道路の端に動かす。身体が重い。少年は自転車をゆっくりと近づけていく。顔がハッキリと見えそうで、見えない距離までくると「なに?体調悪いの?」と鬱陶しそうにそう言った。
「……大丈夫だよ。道塞いじゃってゴメンな」
「ほんとだっての、オジサン。こんな真夜中に何やってんの」
「……そっちこそ、ダメじゃないか。こんな時間に子供が出歩いたら」
「俺はいいんだって。オジサン、もう歳なんだから体調悪いなら早く家帰れよ」
強い口調ではあるが根は優しい少年なのだろう。私が歩き出すまで見守っていてくれているようだ。このままだと少年の帰る時間まで遅くなってしまう。私は力を振り絞って前へと足を進めた。
静かな夜だ。私の歩く音と少年が自転車をカラカラとタイヤを転がす音だけが響いている。
まるで少年と私だけこの街に取り残されてしまったような、寂しい夜だ。
「オジサン、家この辺?」
「うん、もう少しなんだ」
「……体調、悪いの?」
「あぁ、なんだか疲れちゃっただけだよ」
「ふーん」
「声をかけてくれてありがとうね。君もこんな時間に外出て、親御さんは心配してるんじゃない?」
「俺はいいんだって」
少年はどこかぶっきらぼうにそう答えた。
「どうして?」
「俺は待ってただけだから」
ピタッと自転車を転がす音が止まる。続くのは泣いているように小さく震える声。
「ダメだかんな。ぜったい。そんなのダメだからな」
「お、おい」
「疲れたからシヌとか、そんなの絶対ゆるさねえ。んなことで死にたいとか言えたキャラだっけ?俺、こんな冴えないオジサンになるのとかほんと無理なんだけど」
「き、君は」
その時遠くに車のヘッドライトが見えた。どんどんと近づくにつれ、少年の顔がハッキリ見えてくる。ヘッドライトの光が大きくなるにつれ、私の鼓動も大きくなる。
そしてヘッドライトと少年が重なった瞬間。見えてしまった。ぜんぶ、ぜんぶ、わかってしまった。あぁ、ほんとうに懐かしい。
そう、それは私が少年だった頃の顔。
こんな子供だったけな。でも間違いない。
私だ。少年は私だったんだ。
「真っ直ぐ家に帰ってくれよ」
ハッと意識を戻すともう少年の姿はそこにはなかった。通り過ぎた車の後ろ姿を見送る。どんどんと歪んで小さくなるそれすら、幻だったのだろうか。
でもこんなにも少年の声が脳裏にこびりついて離れないのはどうしてだろう。
あぁ、どうして。どうしてだろう。
あんなにも死にたかったのに。
あんなにも死にたい夜だったのに。
どうにもならない夜だったのだ。
一筋の光も見えない暗闇だと思ったのだ。
でも今はヘッドライトに照らされたもうひとつの希望が見えるんだ。
真っ直ぐ帰ろう。このまま。
少年よ。心配をかけてゴメンな。
不安にさせてゴメンな。
私は大丈夫だ。
だから君の未来だって大丈夫だ。
私は足をどんどん前に進めていく。ポタポタとアスファルトに雫が落ちていく。負けるもんか。負けてたまるか。私は生きるのだ。生きて生きて、生き抜いて、少年の未来は私が守るのだ。
「なーんだ。出来るなら最初から本気出せよな」
少年だった頃の私が嬉しそうに笑ってくれた、そんな気がした。