情報としての音楽
8月に入ったらヘッドホンをつけるのを少しやめてみようかな、と思っている。
暑いからというのももちろんだけど、それだけじゃない。
音楽を「情報」として扱ってみると、もしかしたら自分こそ最も情報化社会の子となってしまっているんじゃないか、と思ったからだ。
例えば僕は、誰かといる時と、家にいる時以外は、基本的にヘッドホンをつけている。
ヘッドホンが発している音は基本的には音楽だけど、お気に入りのYouTuberの動画だったり、ラジオだったりする。
つまり、ヘッドホンをつけている間、「音楽」や「動画」、「配信」という名前のつけられた「情報」をずっと耳から受け取っているわけである。ゼロ距離で。
これはとんでもないことなんじゃないか。
考え方を変えてみる。
僕が身につけているのが、耳につけているヘッドホンではなく、メガネ型の投影機だったとする。その投影機には、新聞やら、雑誌やら、そういった視覚を刺激してくるものが投影されているわけだ。
そうすると、僕はそのメガネをつけている間、ゼロ距離で「新聞」や「雑誌」という名前のつけられた「情報」を、視覚的に受け取り続けていることになる。
こういう例えだと、とんでもないことだと思えてくる気がする。
正直言うと、聴いている音楽だって最近はあまり変わり映えしないし、動画だって無理やり探して聴いている。
よくよく考えれば、どれも必要ないことだったような気もしてくる。
それに先日、バイトの大先輩のドビーさんは、「ヘッドホンつけてると顔デカく見えるからなあ」と僕に言って控室を出て行った。
あれは遠回しに、「チャコフくんも余計顔大きく見えるからやめたほうがいいよ」と伝えていたのではないか。マニュピレーションだったというわけだ。
ドビーさんもそう言ってたので、ヘッドホンは少し控えてみようと思う。
前から思ってたけど、ドビーさん、トビーさんならトビウオになってかわいいのに。
あトビーはトビハゼか。
トビウオならサカナクションの歌に出てくるんだけどな。
「朝の歌」の最後の部分。
うーん。
結局音楽の話をしている。