夏の終わりと巡るものと巡らないもの(2)
朝7時過ぎに階下へ降りると、妹がいつもよりせわしそうに準備をしている。何かあるのかと聞くと合唱コンクール当日だという。合唱コンの存在や、妹がそれに向けて練習を重ねていたことの一切を知らなかったことが、また「とつ」と、互いに分かれ道を進んでいることを感じさせたし、同時に、今年も夏が終わるのだなとも思った。
夏に僕は更に成長する予定でいた。
ところが蓋を開けてみると、タップダンスの如く足踏みをしまくった日々があっただけだった。やっと見つけたと思った観念も、人や、人の創ったものにすぐに揺さぶられた。その揺れが作った隙間から、若く、無知で、未熟で、何かと昔のことを大事にしたがる自分が顔を覗かせた。
端的に言うと、演劇をやる意味、だとか、何故演劇でないとだめなのか、だとか言っていた、その諸々の考えや日々自体が、その辺のゴミ箱にぽいと投げ捨てられたような、そんな状態なのである。
音楽を聴いたり、本を読んだり、映画を観たり、演劇を観たり、誰かと話したり。その度に、何かを創ろうという気が失せたし、打ちひしがれた。何が正解なのかわからないし、何ができるのか皆目見当もつかなくなった。
その割に、そんなに苦しい日々を過ごしているわけではない。早起きできる日もあるし、早寝できる日もある。バイトも行っているし、その合間を縫ってプラットでお手伝いをしたり、遠くに行ったりもしている。
夏にやろうと思っていたことは大抵やれている。ただ、その結果が、望んでいたものと大きくずれていただけなのである。
収穫を挙げるとするなら、朗読劇というものに出会ったこと。あの手法は、演劇で自分がやりたいことの幅をとても広げられそうに思える。
最近アジカンにハマり直しているが、ソラニンを歌うのも、そう苦ではなくなってきてしまった。
それでも、分かれ道を「とつ」と行った、尊敬する友たちは、今何を思って、何に思いを馳せて、生きているのだろう、と想う。
輝く世界を、しばらく見ていないような、そんな気がした。