まるまるわたし
2020年8月15日(土) 22:42
成長することはまるくなることと同義かもしれない。まるくなることは諦念を受け入れることと同義かもしれない。
昔はもっていたとげとげ。いろいろなものが引っかかる。引っかかったものが時間に流されて引っ張られる。そしてとげとげもろとも流れていく。
そうして、アイデンティティが時間にとかされていく。
あるいは、時間に流され転がされてまるくなるのかもしれない。諦念、やわらかく受けいれる。
突っかかることをやめた。いちいち引っかかるのをやめた。それが望んでなのか望まずになのか、それはさほど重要ではなく、ただただすべてのことに諦めがつくようになってしまった。
譲れないことが譲れなかったはずのものになっ
て、これだけは叶えたい夢がいつかの世間知らずの夢になった。
わたしは繊細だった。不器用でも丁寧に掬いあげて、ちゃんと見つめられていたはずだった、のに。
わたしがまるになる。とげとげに引っかかったもやもやによって。わたしを転がす気がかりな時間の流れによって。
そうしてまた、わたしは確信する。いつかの夢のあのまるが今のわたしであることを。
もう、まるい夢はしばらく見ていない。