石ころになりたい病発症!…か?
こんにちは、まるです!
日々、葛藤しながら生きていますよ。
昨日、今日とあまり気分の上がらない日が続きました。
なんでしょうね。
春になると、定期的にくる「石ころになりたい病」の兆しが出てきているのかもしれません。
まあ、季節的な要因もあるのですが、最近のわたしは「自分を俯瞰してみる」ということが少しずつできつつあるので、「石ころになりたい病」になるきっかけについて、少し考えてみたいと思います。
まず、「石ころになりたい病」とは
「どうか、みんなわたしを見ないで。認識しないで。目に映っても意識しないで」
と感じる精神状態のことです。
全くもって、最悪ですな。コミュ障の極致。
今はまだそこまで行ってはいないのですが、今の精神状態は
・孤独を感じる
・必要とされていない気がする
・置いてきぼり感がある
といった感じです。
もちろん自然とこうなるわけではなくて、きっかけとなる出来事があるわけですが、普段なら気にならないことが妙に気になってくよくよ考え込んでしまう、ということは
「石ころになりたい病」を発症し始めているから、ちっさい小指の先ほどの出来事に敏感に反応しているのか、
その出来事があったから、発症しかけているのか、
「鶏が先か、卵が先か」的な状態ではありますね。
なんでしょうね。
結局そのきっかけって、
「良かれと思って」したことが思ったほど歓迎されなかった、むしろ迷惑をかけているかもしれない、ということに端を発していることが多いようです。
これが、相手がこちらの想定していた反応をしてくれれば、満足なわけで
とすると、これは自分のやったことが評価されなかった→承認欲求が満たされなかったということ?
うーむ。
書いていて恥ずかしくなってきたぞ。
こちとらもうとっくに五十路を超えて、いい大人になってるわけです。
それが、他人様から評価されなかったら落ち込むってアンタ、
中学生か!!
って感じですね。(いや、ごめんよ、現役中学生。)
とすると、「石ころになりたい病」を発症する原因は「承認欲求が満たされないから」ってことになるんでしょうか。
おいおい、おいおい。
ちょっとちょっと、恥ずかしいなあ。
でもまあ、理性的に考えると
「自分が良かれと思って」やったことは、それをやった時点で成仏しているはずなんです。
誰かへのプレゼントは、「喜ぶ顔を想像しながら、選び、相手に渡す」時点でその役割を完了している。
そのプレゼントをもらった人が喜ぶかどうかは、関係がないのです。
「プレゼントを渡したい」と思って「プレゼントを実際に渡す」ことができれば、目的は達したことになりますから。
そのプレゼントを喜んでほしいと思うのは、また別の話、どちらかというと他人を動かそうとするエゴになっちゃいますよね。
そう考えると、わたしの「良かれと思ってやったこと」も「やった」時点で役割は終わっている。
それを相手が評価してくれようが、どうしようが、わたしには関係のないこと。
精一杯の努力をして、やったことなら、そこから先のことは天に預けてしまえばいいのですよね。
うん。納得。
承認欲求に振り回されてる自分は、結局相手を動かそうとしている自分ってことですね。
承認欲求って原因が出てきた時には、恥ずかしくってどうしようかと思ったけど、なんとかいい感じにまとまりそうだぞ。
よくやった自分。自分で自分を慰める。
これも「石ころになりたい病」をなだめる方法の一つなのでした。