【アークナイツ】「ラテラーノ」考察—サンクタの楽園とその虚飾について
『空想の花庭』では「楽園」という言葉が何人もの登場人物の口から発せられた。この言葉は先立って開催されたラテラーノイベント『吾れ先導者たらん』においても登場するが、同時に「偽り」や「まやかし」、或いは「楽園」であることへの疑問という否定的な要素も含まれていた。
本稿では『吾れ先導者たらん』及び『空想の花庭』の2つのラテラーノに関するイベントを題材として、ラテラーノという楽園とその虚飾について考察する。
「サンクタ」の誕生
「サンクタ」の誕生
まずはサンクタという種族が如何にして誕生したのかを見ていく。
古代テラには「ティカズ」と呼ばれる在来生物が存在していた。現在「サルカズ」と呼ばれるそれは、目に映る世界を「カズデル」と呼びテラ全土を故郷としていた。
「テラ」と呼ばれる惑星に旧人類が移住を目論むその前から、ティカズはその惑星で暮らしていた。このティカズの一部が「法」あるいは「アレ」と呼ばれるものの力によって、それまでの姿を変え光輪と翼を得るに至った。
これがサンクタの誕生であり、サンクタは他のサルカズ、例えばナハツェーラーやブラッドブルード等と同じ起源を持つ者である。これはレヴァナントがサンクタの裏切りに憤激を表した場面でも、両者が同種であることが明かされている。
サルカズとの繋がり
上記の事実は次の二つの事象がなぜ生じたかの根拠を明らかにするとともに、サンクタとサルカズとが完全には分離していないことも明らかにしてくれる。
その一つはセシリアの存在である。
セシリアはサンクタの母とサルカズの父との間に生まれた混血児であるが、サンクタと他種族の間の子はサンクタとなることはできないとされている。
しかしサンクタとサルカズとが起源を同じにする種族であり、両者間に大きな身体的差異がないのであるならば、両者の間の違いは"アレ"に選別されるか否かのみということになる。フェリーンやフォルテのような発生から異なる他種族と異なり、サンクタとサルカズとの間に本質的な違いがないのであれば、その間の子にサンクタの特徴が表現されることもあり得ると解される。
二つめは堕天である。現状堕天したサンクタの例として我々が見受けられるのはモスティマとフォルトゥナの二名である。
堕天したサンクタはその特徴である光輪と翼が黒ずみ機能を失う代わりに、頭部の角と尻尾が生えることとなる。その外観がサルカズによく似た特徴を有することになるのに加え、身体的ないくつかの指標にも変化が起こり、上述したサルカズの血を引くセシリアと似た傾向、すなわちサルカズとしての要素が生まれることとなる。
堕天がいかなる場合に発生するかについては後述するが、サンクタがティカズから分離するに際して手に入れた光輪と翼の機能を取り上げられ、代わりにサルカズの形質を発現することは一種の先祖返りと見ることができる。
ラテラーノの建立
サンクタが誕生した後、「アレ」の上に「ラテラーノ」が築かれることとなる。
「サンクタの楽園」として築かれたそれは同種であるサルカズを拒み、サルカズと有史以来の対立をしながら、サンクタ至上主義の国へと発展を遂げていくこととなる。
ここにいう「サンクタ」については『吾れ先導者たらん』でその答えが示唆されていた。
「アレ」の正体は明確にされていないものの、サーバー音のようなSE、『吾れ先導者たらん』のロビー画面での「Terminal is starting」の文字、そして『空想の花庭』で示された何かしらのプログラムの実行と思しき文言からみれば、「アレ」とは機械、より具体的にはコンピューターのサーバーと思われる。
イグゼキュターのプロファイル資料にはラテラーノには条例の他により高次の法律が存在し、ラテラーノは法律に名実相伴っているように見せるため、執行人を確知に送り出している旨の記述がある。
この高次の法こそ「アレ」が示した真なる法、即ち「我々を存在させ続けること。」と推測される。「我々」とはラテラーノが建立される前に「アレ」によってティカズから選ばれた「サンクタ」であり、ラテラーノはサンクタを存続させ続けるために建てられた楽園ということができる。
ラテラーノの誕生以降、この楽園はサンクタを荒野の厳しい生活から守ると同時にサンクタの存続を図るため、サンクタとそれ以外の種族とを明確に区別する道を選んだ。以下ではラテラーノにおけるサンクタとそれ以外との区別について見ていくこととする。
サンクタの特権
ラテラーノはサンクタのために建てられた国であり、それ故にサンクタに特別な地位を与えている。ここではリーベリとの比較とEN版の記載からラテラーノにおけるサンクタの特権を見ていくこととする。
リーベリとの比較
ラテラーノにおけるサンクタとの扱いの差が描かれたのは主としてリーベリである。『吾れ先導者たらん』においてアンドアインやパティアが語ったように、リーベリはラテラーノにおいてサンクタと明確に区別され、劣位に置かれている。
この両者の地位の違いが生じた原因はラテラーノにリーベリが移住してきたこと、より詳細にいえば銃や戒律、光輪、共感といったサンクタ特有の性質を移住者であるリーベリが特別なものだと認識し、サンクタがその認識を甘んじて受け入れ、そして下記に述べるようにその扱いを法のレベルで定めたことに由来する。
このリーベリとサンクタとの地位の差に異議を唱えるリーベリはほとんど存在しないようであり、『吾れ先導者たらん』でラテラーノに反旗を翻したパティアはそのことに憤激していた。
ラテラーノでは明確にサンクタとリーベリとの地位に差を設けており、これによってサンクタが特別な存在であるとの認識を保持し続けていることがわかる。
そしてこの軽視はリーベリだけに向けられるものではない。アンドアインが故郷ロカマレアを救うためラテラーノにほんのわずかな支援を求めた時ですら、ラテラーノは支援を受けるのがサンクタではない種族だからという理由だけで要請を拒否した。
この強硬なまでのサンクタとそれ以外という区別がなぜ生まれ、維持され続けているのかについては後ほどもう少し考えていきたい。
法によるサンクタの特権
次にEN版の記載から、法のレベルでサンクタに優越的地位が与えられていることを見ていく。
多くのサンクタのプロファイル資料に記載されているこのラテラーノ公民とラテラーノ公民権という文言はEN版では特殊な記載方法がされている。
この「is entitled to the privileges listed in Clauses 1-13 of the Laterano Constitution.」という記載は、聖約イグゼキュターやエンフォーサー、インサイダーといった代表的なサンクタのプロファイル資料に同様に記載されているが、アドナキエルのプロファイル資料では以下のような記載がなされている。
鉱石病に感染しラテラーノを追放されたアドナキエルについては、エクシアらの「privileges」ではなく「rights」が用いられており、また「listed in Clauses 1-13 of the Laterano Constitution.」という文言はなくなり、代わりに「one through thirteen afforded to all citizens of Laterano.」という文言が用いられている。
この「rights」は同様に鉱石病感染により追放されたアレーンのプロファイル資料にもみることができる単語である。
またイグゼキュターのプロファイル資料には以下の記載がなされている。
「privilege」は基本的人権として用いる場合もあるが、「right」を用いている以上ここでは特権を意味すると解するのが妥当である。そしてprivilegeについてはLaterano Constitution(ラテラーノ憲法)に定められている一方で、rightについてはそのような記載はない。
むしろrightについて「afforded to all citizens of Laterano.(全ラテラーノ市民に与えられる)」との記載や「applying Rights of the Laterano Citizen numbered One through Thirteen.(ラテラーノ市民に一番から十三番までの権利を適用する)」との記載があることから推察するに、Privilegeはラテラーノに住まうサンクタに与えられ、rightはそれ以外、すなわち鉱石病に感染し追放されたサンクタやラテラーノにいるリーベリに与えられるものと解される。
ラテラーノにおけるprivilegeとrightの厳密な使い分けの基準は定かではないものの、少なくとも文言上ラテラーノが権利の側面からサンクタに特権を与えていることは確かであり、ここでもサンクタとそれ以外との区別がなされている。
ラテラーノが法を重んじる国である故に、この国は法それ自体によってサンクタとそれ以外を区別し、サンクタが特別な存在であるとの認識を形成したことで、サンクタの優越性を確立することに成功したものといえるだろう。
楽園の虚飾
楽園への疑念
これまで見てきたように、ラテラーノは「サンクタの楽園」として誕生し、他の種族との間で「我ら」と「彼ら」というように線引きをしながら、楽園として存続し続けてきた。
この楽園の在り方に疑念を持ったサンクタはアンドアインとステファノ・トレグロッサ司教が存在する。
アンドアインはラテラーノの人間と同じ信仰を持ち救いを望むサンクタでない者達とラテラーノのサンクタとの間に何の違いがあるのか、なぜラテラーノが「彼ら」を救おうとしないのかに疑念を抱いた。
ステファノ・トレグロッサはかつて救いを求める全ての者の声に応え、誰であろうと平等に扱うことを誓った。しかし彼が信仰する主がいるはずのラテラーノは、サルカズというだけで楽園に受け入れることを拒み、彼はそおようなラテラーノに失望し、一度その信仰を捨てるに至った。
両者の疑念はある一点で共通しているといえる。
「他者を救う力があるはずのラテラーノが、自己と信仰や生活を共にしてきた同胞を、なぜ種族の違いだけを理由に楽園へ受け入れようとしないのか」
アンドアインの問いに対し現ラテラーノ教皇イヴァンジェリスタⅪ世は以下の返答をした。
ラテラーノ内におけるサンクタと他種族の扱いの差、サンクタにのみ与えられる恩恵と特権、そして楽園の外で生活するサンクタ以外の存在を「地獄そのもの」とまで言い捨てる教皇。
ラテラーノを楽園たらしめているものはこのグロテスクなまでの差別意識あるいはサンクタの選民思想ではないのだろうか。
このサンクタの選民思想について、多くのラテラーノに住むサンクタは何の疑念も抱いていないことが窺えるところ、その原因にはサンクタ特有のとある性質、即ち共感機能とスイーツと爆発をこよなく愛することにその一端があるのではないかと考えられる。
共感
まずサンクタの共感に関する情報を整理していく。
サンクタは光輪を通じて他のサンクタの感情を共有することができる。この共感機能は単に相手の感情を共有させ同族の結びつきを強めるのみでなく、最も重要な戒律ともいえる「同族に銃を向けてはならない」という戒律を厳守させる機能をも有している。
他方でこの共感機能には「離群」と呼ばれる共感障害があり、「長年ラテラーノから離れ、サンクタの生活方式とコミュニティの価値を理解していない者に見られることが多い」とされている。離群状態のサンクタは共感機能に損傷を受けているわけではなく、ラテラーノに住むサンクタ達がなぜ笑い、なぜ泣くのかを理解できないとされている。
としてもこの共感障害についてはエンフォーサーにも発生している。
エンフォーサーによれば非病理的な共感障害の原因は「思考するようになった」ことにあるとされている。そしてこの記述を反対解釈すれば、通常のサンクタ、即ち共感機能に障害を来たしていないものは「思考」をしていないということになる。
としてもそれではレミュアンやエクシア、インサイダーといった共感に問題のない者達も何ら思考していないとの結論になり、これは妥当でないようにも思える。そこでここにいう「思考」とは何を意味するのかを考える必要がある。
この点サンクタに光輪が与えられたのが「アレ」による恩恵であること、その目的がサンクタを存続させ続けること、ラテラーノがそのために建てられたこと、そして「離群」がラテラーノのコミュニティの価値に触れないことも原因とされていることに立ち返ると、エンフォーサーのいう「思考」とは「ラテラーノでの暮らしを当たり前のものと認識しなくなった」ことを意味するのではないかと推測される。
これはエンフォーサーがラテラーノを離れ今までの生活に疑念を持ったこと、またアンブロシウス修道院のサンクタはラテラーノの生活に一切触れてこず『空想の花庭』を経て初めてラテラーノのサンクタと接触したことにも符合する。
「思考」をこのような意味で捉えたとき、ラテラーノのサンクタ達には思考が欠けていることとなる。その一端を担うのが、サンクタ特有の異常なほどのスイーツへの熱意と「様々なものを爆破したくなる」という奇妙な性質と考えられる。
「スイーツと爆発」
古代ローマの詩において市民の政治的無関心を示す言葉として、また愚民政策を比喩する言葉として「パンとサーカス」という言葉がある。
食料と娯楽を権威者が市民に提供し生活の安定と快楽とを満たすことで、市民を政治的無関心状態の愚民へと陥れる政策を比喩する言葉である。
甘味が多幸感を与え、爆発が興奮状態を引き起こすこと、それらのポジティブな感情が共感を通じてサンクタ全体に広がる社会は、「パンとサーカス」が示すものと完全には一致せずとも同じ方向性を向いているとみることもできなくはないと思われる。
このスイーツ好きと爆発衝動が「アレ」によるものか、それとも長い年月をかけてラテラーノが生み出したのかは定かではないが、少なくとも多幸感と興奮状態によるポジティブな感情の蔓延が、ラテラーノのサンクタに現状のラテラーノへの疑念を抱かせない要因になっているように思える。
以上見てきたようにラテラーノは「楽園」として存在しているが、それはあくまでサンクタにとっての楽園であり、他の種族に対する排他的差別的思想、法により強制される共感機能による同族意識や同族を害さないための戒律の遵守、ある種の愚民政策によりサンクタに根付く選民思想への疑いを持たせない思考の限定によって支えられているとの実態は、「楽園」という言葉の印象とは大きく異なり、他種族への救いをもたらさない虚飾というべきものと考える。
法の価値
最後に法の価値について少しだけ述べようと思う。『空想の花庭』でクレマン・デュポワは次のように述べた。
クレマンの言葉を受けてか、イグゼキュターの法に対する意識にはアンブロシウス修道院での事件を経て変化が生じている。
法の価値を考えるとき、そこにはどうしても超えられない障害が存在する。それは法それ自体に人を救う力はないということだ。
例えば何かしらの事故あるいは殺人事件で人が亡くなったとしよう。法はその救済手段として不法行為を理由とした損害賠償を認めている。だがいくら損害賠償をし、金銭でもって損害を埋めたとて、亡くなった人が帰ってくるわけではない。犯人に殺人罪が成立し実刑が下されたとて、亡くなった人の家族や友人の心が晴れるわけではない。
また法の役割を秩序の形成に求めるとき、社会が災厄に見舞われ混乱状態となれば、法が守ろうとする秩序は多くの人間の思考から消えることもまた事実であろう。
法に緊急時に救いをもたらすものとしての価値を求めるとすれば、法は無価値と言わざるを得ないだろう。その意味でクレマンの「私を救おうとするものは法か人か」という問いに対する答えは人でしかありえない。法それ自体に人を救う力はないのは事実であり、イグゼキュターの次の言葉もその意味で肯定することができる。
しかし法の価値に目を向けるとき、我々は法が規範であることを忘れてはならない。
我々が「法」という文字を見て思い浮かべるのは多くの場合条文の形で表された「実定法」をイメージするだろう。しかし実際に私たちが「法」としてイメージするものは必ずしも実定法ではなく、むしろ例えば慣習であったり条理であったり、生活の中でのルールとして溶け込んでいるものをイメージする方が多い。
実定法が先か、それとも慣習や社会の実情が先かは個々の事情によるが、法として定められたものが社会のルールとなり、そのルールが個々人の内心における規範となる。
フェデリコに芽生えた法が機能しなくとも人を救おうとする意思を、ステファノが修道院の人間を「海の怪物」にすることを思いとどまった決断を、ジェラルドが同胞を守るために自己の命を捨てた覚悟を、恐れ多くも「良心」と呼ぶことが許されるならば、「法」の価値は個人の良心を育てる土壌となることにあるのではないだろうか。
結び
以上『空想の花庭』と『吾れ先導者たらん』というラテラーノに関する2つのイベントに焦点を当てて、ラテラーノという楽園とその虚飾、またラテラーノを支える「法」という概念の価値について考察してきた。
ラテラーノがサンクタ以外への差別意識やサンクタの選民思想を育み、他種族への救いの手を伸べないことに、「サンクタ」という種族の成り立ちの特殊性や種族特有の性質が絡むことは仕方がないにせよ、ラテラーノは「楽園」と呼ばれるに値しないと私は考えざるを得ない。
しかし、現在フェデリコはラテラーノ出身のオペレーターをロドスへと招待し、ラテラーノ内外におけるサンクタの暮らしを把握しようとしている。フェデリコのみならずロドスに入職したサンクタが他種族と自分たちがそう大きく変わらないことを意識し、ラテラーノの選民意識が払われ、いつの日か誰隔てなく救いの手を差し伸べる。そんな「楽園」となる日がくることを願うばかりである。
以上
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