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【アークナイツ】『シラクザーノ』考察ー法と秩序の正統性からみるシラクーザ

我々は平等を――暴力に基づくことのない秩序を追い求めているのです。

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イベント『シラクザーノ』では、マフィアが全ての公共事業の影に潜み、行政を、司法を、国民を支配する国「シラクーザ」が描かれた。

暴力による支配が伝統と化したシラクーザで起きた事件を描く本イベントでは、ミズ・シチリア、マフィア、狼主による支配に抗う人々の姿が描かれた。

そこで本記事ではシラクーザを覆う秩序になぜ人々が従っていたのか、その根拠は正しいのかという「正統性」の問題に着目し、またそれに反抗した人々について考察をしていきたいと思う。


シラクーザの歴史

本題に入る前に、まずはシラクーザの歴史と現状についてをまとめてみることにする。

建国と現在に至る流れ

――百年以上前、シラクーザが一つの地域から国家になった時……当時の十二家が管理していた合計二十二の都市が、この国の領土となった。

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シラクーザはウルサス、リターニア、ラテラーノ、レムビリトンに隣接する国家であり、百年以上前に一つの地域から国家になったとされている。

[重制地图氵]有人要高清上色版泰拉地图吗(增加了乌萨斯飞地的相关说明)

当初は一つの地域として存在しマフィア十二家がそれぞれの秩序の下に合計二十二の都市を管理していたとの記載は、大陸版で「叙拉古人」開催の生放送がされた際の黑桥氏の発言により補足される。

同氏は「这样的传统呢来源于叙拉古自莱塔尼亚独立之后数个领袖家族组建起的城邦联盟(このようなシラクーザの伝統は、シラクーザがリターニアから独立した後複数のファミリーのドンが築いた都市国家同盟に由来する)」と発言しており、元々はリターニアの従属地であったことが分かる。このことから、同時にシラクーザのオペラ文化の発展もリターニアからの影響を受けたものと考えられる。

【《明日方舟》2022「感谢庆典」前瞻特别节目(附字幕)】

独立したシラクーザは60年前の1039年にミズ・シチリアがラテラーノから教会と「銃と秩序」を持ち帰り、グレイホールを創設すると、その絶対的な実力により十二家をグレイホールの席に着かせた。十二家間の争いを禁止する掟を作り、それぞれのファミリー間で異なっていた秩序を統一することで都市同盟的な状態を解消、今の統一国家としてのシラクーザが生まれることとなった。

ミズ・シチリアによる支配

グレイホール
【《明日方舟》2022「感谢庆典」前瞻特别节目(附字幕)】

シラクーザは表向き「銃と秩序」と裁判所による統治、すなわち法治国家としての形式を有している。しかし、実態は全く異なり、ミズ・シチリアによる人の支配がなされている国家といえよう。ここでは三権分立、つまり立法、行政、司法の三点からシラクーザの統治のあり方を見ていこうと思う。

立法

シラクーザでは法律が存在することが明確に描かれている。その具体的内容は定かでないものの、クルビアのものを参考にまとめられロースクールでもクルビアの法律書が用いられているとのこと。

その立法はミズ・シチリアとアグニルによってなされたことが分かる。

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アグニル個人行動

この点アグニルは「法の基礎を定めた」とあり、また現行の法律までもこの二人によるものか、それとも国会のような立法府が存在するのかまでは定かではない。仮に立法府が存在するとすれば、シラクーザにおける裁判所の役割を考慮するとおそらくは「グレイホール」が担うのだろうと考えられる。

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グレイホールを経由するとしても、直接にせよ、立法にはミズ・シチリアの影響が多大であることは想像に難くない。

行政

シラクーザの行政組織については次の言葉が現状を物語っている。

「政府というのは、グレイホールの円卓に敷かれたテーブルクロスのようなもの。」

この言葉は、政府(ここでは行政組織としての政府を意味する)はいつでもグレイホールの意志によって取り換えることが可能だということ、それは同時に行政組織にはマフィアの支配が及んでいることが分かる。これは物語中のみならずアオスタのプロファイル資料にも記載がある。

シラクーザという国の在り方は他国と根本的に異なっている。シラクーザでは、ファミリーと呼ばれる存在が全ての公共事業の背後に潜んでいる
~~
ある国の生活様式に関して、何が正常であるかを余人が定義することは難しい。だが、ファミリー間での抗争を行政機関が滅多に制止しないというのは、確かに正常とは言いがたいのかもしれない。

アオスタ第四資料

しかし近年この行政の在り方にはクルビアの影響から変化が生じようとしている様子が描かれている。

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司法

シラクーザの裁判所はラテラーノにならって建てられ、グレイホールの意志を体現するもの、裁判官はミズ・シチリアの意志の代行者との役割が与えられている。

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上述したようにシラクーザではファミリーがそれぞれの移動都市を有していることから、司法体系は特殊なものとなっているとのこと。その詳細はペナンスのプロファイル資料に以下のように記されている。

シラクーザには警察組織がなく、裁判官はミズ・シチリアの意志の代弁者として、シラクーザの社会的治安を維持しているのだという。
しかし、実態としてほとんどの場合はマフィアたちが事件を片付けているらしい。事件に関わった人員が所属するファミリーがどこであるかによって程度には差があるが、判決に介入されることもある。そして、より多く見られるのは、そもそも裁判官の所に提出されない事件であり、これが大半を占めている。裁判官が事件を知ることができるのは、すでにそれが片付けられたからか、あるいは彼らの力で片付ける必要があるかのどちらかでしかない。

第2資料

このように裁判所には持ち込まれる事件、判決にマフィアによる介入が当たり前のように存在し、マフィアに反抗して自己の公正に従った判決を行えば、報復を受ける様子が描かれている。

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そのような状況にあるため、シラクーザにおいて法の適用・執行がされるのは裁判官による審理判決がされたから、法の下の平等が認められているからではなく、マフィアを束ねるミズ・シチリアという存在に依存するからというのが現状とのこと。

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この「公正」を追い求めたのがペナンスことラヴィニア・ファルコ―ネであり、その苦難については裁判所の本来の役割とともに後述したいと思う。

以上見てきたように、シラクーザにおいては立法、行政、司法いずれにおいても「グレイホール」、より正確にいえばミズ・シチリアの決定が最重視されるのであり、ミズ・シチリアという人の支配による統治がされているということが出来るだろう。

ファミリーの存在

ミズ・シチリアをトップに置きつつ、現実に市民社会を支配しているのは「ファミリー」と呼ばれる存在である。この「ファミリー」は建国神話のレベルで登場し、シラクーザにおける「ファミリー」という存在は国全体を覆う秩序として存在している。

レオントゥッツォ
あなたは……ファミリーの存在を当然のこととお思いなのか?
ミズ・シチリア
あって当然のものなんて存在しないけれど、ファミリーの存在は私が生まれる何千年も前からこの地に根差していたのよ。
私たちに歴史を否定することはできないし、すでにそこにあるものを軽率に打ち壊すことだってできないでしょう。

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《七丘の母狼》/"Sette Colli's Mother Wolf"
母狼が巣から離れたのは後世の教訓にせねばなるまい。
こうならないよう、規則を犯すべきではない、と。

昔、ある部族が七つの丘に囲まれた渓谷で暮らしていた。
部族の領主の母狼には六人の子供がいた。母狼と子供たちはそれぞれ一つの丘を縄張りにして、餌を巡って争いあった。百年後、子供たちはそれぞれ自分の群れを確立し、これまで通り争いを続けていた。
部族の領主の母狼には六人の子供がいた。
母狼と子供たちはそれぞれ一つの丘を縄張りにして、餌を巡って争いあった。
百年後、子供たちはそれぞれ自分の群れを確立し、これまで通り争いを続けていた。
争いの中、群れの一つが他の群れに敵わないことを悟り、母狼から餌を奪おうと考えた。
子供と争いたくなかった母狼は空に昇り、月を覆う影となった。
月が闇に覆われるたび、ループスの群れたちは母狼の寛容さと憤りを心に深く刻んだ。
~~
母狼を失ってから、他の群れはようやく悟った。
彼らは元凶となった狼を追放すると、ルールを定めた。集落を「七つの丘の都市」という意味のセッテコッリシティと名付け、評議会も設立された。
それ以来、ループスたちは部族の名ではなく、ファミリーネームで互いを呼び合った。
六つのファミリーはそれぞれ一つずつ丘を占有し、残りの丘は母狼に捧げた。
ルールを破ったループスは皆、セッテコッリ評議会とセッテコッリシティから厳しい報復を受けた。

在りし日の風を求めて/天空の物語
神話部分のみ抜粋

ミズ・シチリアをトップにして「グレイホール」があり、グレイホールを通じて十二家が管理支配される。ミズ・シチリアの支配下でファミリーがより弱者である一般市民を支配する。

これがシラクーザの現状だといえるだろう。

シラクーザの秩序

シラクーザの現状について俯瞰したところで、次はシラクーザの秩序がどのようになっているのかをもう少し細かく見ていきたい。

表裏の秩序

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シラクーザには表と裏の秩序が共存している。ここにいう表とは一般市民を、裏とはファミリーを意味すると解される。しかし、共存こそすれど裏の秩序たるマフィアは暴力によって表の秩序へと侵食しているのであり、マフィアの支配を避けられていないというのが実際である。

私たちはマフィアの支配という檻の中で暮らしています。
彼らは我々の生活に直接影響を与えるわけではありませんが、暮らしの至るところに影を落としているのです。

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他方でマフィアは人口の問題で表の秩序を完全に支配することが出来ず、そのため表舞台へと出ることが出来ないとのこと。これはファミリーが血縁又は人間性の類似点に基づいて成り立つ故の限界であり、それ故に一般市民が確立したシステムに頼らなければシラクーザを支配することが出来ないという限界が存在している。

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このように表と裏の秩序は互いに他方への優越的な側面を有している。ミズ・シチリアはその事実を認識したからこそマフィアと一般市民との間に境界線を引き、数十年の支配を経て「表裏それぞれの秩序が存在するのは当然のこと」という認識を生み、また「シラクーザの地下の秩序が成り立つのは、地上の秩序がバランスを保っているからこそ」という当たり前を忘れさせたという。

彼女が絶対的な武力と支配力を見せつけてきたことで、この数十年のシラクーザにおいては「表裏それぞれの秩序が存在するのは当然のこと」だと誰もが思うようになった。
そうして、人々は一つの事実を忘れてしまった。シラクーザの地下の秩序が成り立つのは、地上の秩序がバランスを保っているからこそだという「当たり前」のことを。
これは政治的知恵の表れと言えるだろう。

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としても、現在のシラクーザにおいてはマフィアの存在を前提とする裏の秩序が表の秩序よりも遥かに優位な状態にある。

この裏の秩序による表への侵食に特に悩みを抱いていた人物として描かれていたのが、「公正」を追及する裁判官であったラヴィニア・ファルコ―ネであった。そこで、以下では彼女の苦悩について見ていこうと思う。

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「公正」への苦悩

ラヴィニアは「公正」な裁判官としてシラクーザで知られており、多数の場面で公正について語っている。彼女が公正と評される理由は、「ベッローネファミリーの後ろ盾を受けているにも関わらず、ベッローネのマフィアも裁くこと」、つまりは公平・平等に法に反する者を裁くという点にあると考えられる。

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だが彼女についてはシナリオ中「公正」が実現されないことを嘆く様子が描写されていた。このことは彼女のプロファイル資料でも記載されている

「それなら、私がやってきたことは一体何なの?法の公正と正義を、シラクーザの平和を守ることなんてできているの?何一つできてないじゃない。裁判官全員が、法廷のすべてが、シラクーザ司法体系そのものが、マフィアの共犯者なんだから……」

ペナンス第3資料

それでは「公正」とは何を意味するのか。Justice、Fairnessとも訳されるそれは往々にして正義の一態様とも解されるためここではより広く捉え、「正義」とは何かについてとパラレルに考えていきたいと思う。

例えば法哲学者のハーバート・ハート(Herbert Lionel Adolphus Hart)は著書『法の概念』で次のように記している。

正義の観念のこのようなさまざまの用法に潜んでいる一般原則は、個人は相互の関係において平等あるいは不平等というある相対的地位を与えられているということである。このことは、負担や利益が配分されようとする場合、変動する社会生活において何か考慮されるべきであり、またそれが妨げられるときには、もと通りにされるべきことである。このことからして、正義は均衡とか調和を維持したり回復したりするものと伝統的に考えられているのであり、その主たる教えはしばしば「類似の事例は同様に扱うべし」‘Treat like cases alike’という形で定式化された。またそれに「異なった事例は別々に取り扱うべし」‘and treat different cases differently’ということを付け加える必要がある。

H.L.A.ハート著 矢崎光圀監訳『法の概念』(三陽社、1976年)

正義という概念の核心としての平等の要請はアリストテレスが配分的正義を提唱した時から存在するのであり、このこと自体に異を唱えるものは少ないだろう。

ラヴィニアはシラクーザの法の効力が法の下の平等によってもたらされているのではないことを嘆いている。

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だが正義が平等のみを意味するのならば、彼女はそのことについて悩むことはなかった。なぜならば、彼女はマフィアの後ろ盾を得ているとはいえ平等にマフィアを裁いてきたのであり、その意味で法適用に係る平等の要請は満たされているからである。

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ここで注意しなければならないのは、彼女が裁判官、すなわち法の番人としての正義・公正を追い求めていることである。

前提として法は正義の実現のために存在する。そのため正義は法秩序のなかに組み込まれ、裁判官は一般的抽象的場面を想定して策定される法を現実の諸問題へと適用することで正義を実現しようとする。

つまり裁判官による正義の実現は法に基づいて行われなければならない

だが先述したようにシラクーザの法秩序はマフィアの存在を前提に、マフィアの後ろ盾を得た裁判官が、マフィアの便宜を図りながら法を運用して形成されている。法秩序それ自体がマフィアの存在を肯定している以上、それに従う裁判官が実現する正義もまたマフィアの存在を肯定することになる。

これは法適用の問題ではなく、法内容の点でマフィアが特権を得ていることを意味することとなる。

このような司法体系で公正な裁判が実現されることはありえない。

他方ラヴィニアはマフィアも裁いており、その限りでマフィアからの束縛を逃れたもの、つまり上記のような法秩序の檻から外れているようにも思える。

しかし彼女がそのような行動ができるのもベッローネファミリーという巨大なファミリーの後ろ盾を得ているからであり、公正を実現しようとすればマフィアの力を借りなければならないという泥沼となっている。

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これが彼女の「公正」に対する苦悩とその原因であり、シラクーザという国でファミリーという存在が如何に根深く存在しているのかが伺われる。

オメルタの精神について

ところで、このファミリーの支配に対し市民はラヴィニアと異なり我慢若しくは沈黙という行動をしている。

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この我慢・沈黙という行動形態は、かつて被支配者として圧制されてきたシチリアの人々にもみられるオメルタ(Omertà)と呼ばれる行動形態と類似する。一般市民にまで浸透したオメルタは沈黙の規範であり、次のように説明される。

オメルタとは、シチリアの社会的雰囲気の産物として、あるいはシチリア人の身体に長い間に刷り込まれた極端に慎重な行動形態として理解されねばならない。その場合、暴力からの自己防衛の行為、つまり暴力に対する恐怖から生じる沈黙ということになる。あらゆる暴力から自己を防衛するために、「見ざる、聞かざる、言わざる」という行動形態をとる。このことが、一般的に理解されるオメルタの意味である。

藤澤 房俊著『シチリア・マフィアの世界』(講談社、2009)

本来このオメルタはシチリアが古くから他国の支配を受け続けてきたことから、支配者の法を犯した同胞を守る・救うために被支配者の連帯意識として沈黙を守り、支配者に対する抵抗の表明としてなされてきた。

そのためこのオメルタという心理メカニズムの基本には、強者である支配者から弱者である被支配者を守るもの、すなわち法を犯してまでシチリア人という共同体の利を図ろうとするものへの名誉感情があったという。

血掟テキサスは大陸版、EN版では缄默德克萨斯/Texas the Omertosaとされている。日本版では「血の掟」と限定されているものの、シチリア人の文化的産物としてのオメルタとして、すなわち暴力やそれによる支配から逃れるための沈黙、目を背けることとしても理解できるのは面白いところである。

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しかしシラクーザでは、マフィアに対する名誉感覚としてのオメルタではなく、暴力への恐怖からくるオメルタが描かれている。

このオメルタを打ち破り、ファミリーの支配・秩序を覆そうとした市民が、元食品安全保証部長であり、建設部長の就任演説の場で自らの命を絶ったルビオである。

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そこで以下では、これまでに見てきたファミリーによる秩序の正統性と、それに対抗した人物について見ていきたいと思う。

秩序の正統性と反抗

『シラクザーノ』はレオントゥッツオらをはじめ、ドン・ベルナルド、カラチとルビオが今ある秩序、すなわち「ファミリー」による支配を覆そうと奮闘する物語として描かれている。

テキサスが唯一想像もしていなかったのは――この地で、この国を変えようとしている人間に出会うことだった。
レオントゥッツォ――マフィアの跡継ぎでありながら、現代的な思考を持つ青年。彼の考えは未熟かもしれないが、決して粗暴なものではない。
ラヴィニア――ミズ・シチリアの意志の体現たる傀儡の身でありながら、それでも平等な法を確立したいと考えている裁判官。
カラチ――面識はなかったものの、その人となりが各所から見て取れた前建設部長。
そして――

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今ある秩序を覆そうとする場合、我々はその秩序に従う理由がないと考える。このような秩序や支配、規範または規範を発令する者へ服従する根拠の正しさを「正統性」という。

としてもこれだけでは難解なため、理解のためにいくつかの例を挙げよう。

例えば裁判所の判決を考えてほしい。この場合敗者の側はその内容に不服があれどその判決に基本的に従い、主文に記された債務の履行をし、あるいは刑罰を受ける。これは裁判所自体の存在と権威を認めている、すなわち裁判所の権力が正しいものだと認めており、この場合には正統性が認められているといえる。

また我々は法律に従って生活している。これも選挙という民主的手続きを経て選出された議員により形成される国会が適正な協議を経て策定したこと、つまり法律の制定過程の民主主義的性格が正しいと認めており、この場合にも正統性が認められているといえる。

このように何かしらの支配秩序になぜ従うのか、その根拠は正しいといえるのかが正統性の問題である。

このことからすれば、反抗が起きたシラクーザの秩序は正統性が欠けていたということになる。それではシラクーザの秩序は一体何を根拠に支えられていたのであろうか。

シラクーザの秩序を支えていたもの

まず対市民との関係でこれを支えていたものは直接に支えていたものは暴力である。これは市民に対して振るわれるものも当然あるが、それよりも上で見てきたようにむしろ司法を司る裁判所、裁判官を暴力によって支配することで、市民が司法を通じて救済されないという形で、また行政各部の支配による機能不全という形で表れている。

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ルビオ
普段であれば、その時間のシティホールが静かなはずはないというのに。
あなたはそうして、いくつものオフィスの扉の下から血が流れ出ているのを見て……
ホールの床が血だらけであることに、ようやく気付いたのです。
ラヴィニア
……!
ルビオ
その日、シティホールの人は全員いなくなってしまいました。
輪をかけて恐ろしかったのは、誰一人としてこの事件について語ろうとしないことでした。誰に尋ねても――あなたの母でさえ、皆と同じように沈黙を選んだのです。
消えてしまった人たちなど、最初から存在しなかったかのように。
その後しばらくするとシティホールには再び人が集まり始め、もうしばらくすれば以前の賑わいが戻ってきました。
最後には気付かされるのです――すべては、「こういうもの」なのだと。

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だが、それ以上にこの国を支配していたものは、「ファミリー」という存在、それが行う暴力による支配を「当たり前のもの」として受け入れてきたこと、つまりは「伝統」「慣れ」として描かれている。

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レオントゥッツォ
いいや、気になるのは「慣れ」の問題だ。
カラチの助手として働く中で、俺はあることに気が付いた。
ファミリーという存在は、この地に何千年と根を下ろしている。
だから、ファミリーが存在しないシラクーザがどのように進んでいけるものなのか、人々には想像もできないんだ。
となると、それを実現したあと、彼らに新しい仕組みを作ることなんてできるのか?

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このような伝統による支配はミズ・シチリアも否定することはできないと考えていたことは上で見た。

しかし『シラクザーノ』で「伝統」「当たり前」「慣れ」と呼ばれるそれは、ファミリーはもとより、ファミリーの暴力に晒された誰かの犠牲があることを知りながら沈黙を続けてきた市民を含めて、シラクーザに住まう者全員が共犯者となって守られてきたものであり、その正しさが認められないものであった。

カラチのこの言葉はそのような意味で捉えることができる。

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それでは最後に、この秩序に反抗した人物、特にルビオ、ベルナルド、レオントゥッツオの三人について見ていきたいと思う。

秩序への反抗

まずはルビオについて見ていこう。

ルビオは当初食品安全保証部長であり、マフィアに小物と呼ばれる者として登場した。彼は前建設部長カラチと旧知の友人であり、カラチの後任として権力がほしいとベルナルドに直訴し建設部長の座についている。

ルビオ
敬愛なるドン・ベルナルド……私は権力が欲しいのです。
私は幼い頃より、この顔とひ弱な体格を理由に、周りから見下されてきました。
マフィアから受けた抑圧よりも、そうした周囲から受けた抑圧のほうが、私にとっては大きなものだったのです。
これまで耐え忍んできたのは、このチャンスを得るためでした。

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しかし真実はマフィアに抑圧され親友も殺された怒りから、自らの本心を語るために建設部長就任演説を利用しようとするためであった。

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演説の場でルビオはベルナルドとサルッオの陰謀を暴露し、市民がファミリーの支配の一端を担っていることを示した。そんな中で、直接的にはダンラウンに、マイクを通じて全住民に告げられた次の言葉が彼の本心であった。

ベルナルド氏とミズ・シチリアのどちらが勝つかなど私は知りませんし、興味もありません。
ただ、信じるのみです。――いずれ時代があなたたちを見捨てることを。
シラクーザが新たな時代を迎える命運にあるのなら、その主人公はマフィアであるわけがないのですから。
私たちには力はなく、まさしく弱者と呼べるでしょう。
しかし、いわゆる文明というものは、そもそも暴力を克服するために存在しています。
我々は平等を――暴力に基づくことのない秩序を追い求めているのです。

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ルビオはこれまで抑圧されてきた市民として、オメルタという沈黙の伝統に対抗した。彼が最期自らに銃を向けその命を絶ったこと、その銃声がウォルシーニ中に響き渡ったことは、シラクーザ市民に流れるオメルタの精神、沈黙の伝統が破られたことを象徴しているようにも思える。

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次にドン・ベルナルドレオントゥッツオについて、両者の違いに留意しながら見ていこう。

ベルナルドはベッローネファミリーのドンでありながら、レオントゥッツオは次期リーダーでありながら、共にファミリーの存在が不要だとの考えに至っている。ベルナルドはある夏の自身が見た景色から、レオントゥッツオはカラチやラヴィニア、テキサスといった人との交流を通じて同じ結論へと至っている。

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だが両者はその手段の点で大きく異なっている。ベルナルドは移動都市の所有権争いに乗じてシラクーザに混乱を引き起こし、ファミリー間で潰し合いをさせること、すなわち「暴力」をもってファミリーを崩壊させる手段を採った。

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他方でレオントゥッツオはファミリーが何千年もの間シラクーザに根を張り、人々にとって当たり前となっている以上、これを暴力をもって崩壊させたところで新し仕組みは作られないこと、またファミリーが再建されることを理解していた。

それゆえに彼は暴力ではなく「対話」という手段を用いて人々を巻き込みながら「ファミリーの存在しないシラクーザ」を築き上げようとした。

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この「暴力」と「対話」のという秩序への反抗手段の差とこれがもたらす結果の違いは、ルビオが演説で語った「文明というものは、そもそも暴力を克服するために存在してい」ることの証左として、また市民の願いである「我々は平等を――暴力に基づくことのない秩序を追い求めている」の発露として描かれている。

『シラクザーノ』では「文明」と「荒野」が人と狼主、権力と暴力、市民とマフィアのように形を変えて描かれている。

文明と荒野又は野蛮は伝統的に対置されるものとして考えられてきた。すなわち文明はより人道的で、合理的なもので、秩序が保たれているもの、逆に荒野や野蛮は非人道的で、不合理なもので、無秩序なものであり、荒野がやがて段階を踏みながら文明へと発展していくものとして捉えられてきた。

ダンブラウンの言葉やベンの言葉は、上記の対置から、秩序や権力、ルールといった外見を備えながら実態は暴力によって支配するマフィアの本質が「荒野」のまま停滞していることを見抜いたものとして解することができる。

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IS-9前

ベルナルドとレオントゥッツオの手段の違いは、これまで「荒野」として停滞していたシラクーザが「文明」へと真に進み始める時代が来たことを示しているのだ。

訪れる未来

結び

長々と書いてきたが、最後にシラクーザの未来について簡単に見ておきたい。

レオントゥッツオの回想秘録は彼が『シラクザーノ』の事件の当事者として裁判にかけられる様子が描かれている。その裁判の場で彼は次のように語った。

この場に揃った陪審員、そして傍聴席と、様々なメディアを通じて視線を注ぐ市民たちよ、聞いてくれ。
事ここに至れど、俺の心は不安に満ちている。
確かに俺はミズ・シチリアからこの都市を借り受けたが、ここを俺のものだなどと思ったことはない。
未来のためにこの新都市を共に作り上げようとする人々や、このシラクーザからファミリーを真に淘汰するべく努力する人々のためにこの都市を借りたにすぎないんだ。
俺は皆に代わり決定を下してしまった。だから、俺を裁くのはお前たちであるべきだ。
だが、一つだけ大きな口を利かせてもらうと――
今のシラクーザに、俺を裁く権利はない。
俺を裁けるのは、お前たちだけだからだ。
お前たちはいずれ新都市を築く力を得るのと同じように、その力を手にするだろう。
いつの日か、シラクーザの未来を決める力さえも、お前たちの手に渡るかもしれない。
新都市は、ファミリーに不満や疑問を抱く者、あるいは俺に疑いを持つ者すべての参入を歓迎する。
以上だ。

訪れる未来

新都市には「マフィアの介入を禁ずる」との通達がなされている。父親をはじめ様々な人の影響を受けながら「ファミリーの存在しないシラクーザ」を実現する第一歩として、彼は新都市で民主主義を実現しようとしている。

暴力による支配から民意による支配への移行がシラクーザに訪れる未来であるならば、それによる平和がいつまでも続くことを願うばかりである。


参考文献

北村曉夫・伊藤武『近代イタリアの歴史-16世紀から現代まで-』(ミネルヴァ書房、2012)

藤澤房俊著『シチリア・マフィアの世界』(講談社、2009)

パオロ・グロッシ・村上義和編著『イタリア近代法史』(明石書店、1998)

平野仁彦・亀本洋・服部高宏著『法哲学』(有斐閣、2015年)

佐藤幸治著『日本国憲法論 [第2版]』(成文堂、2020年)

H.L.A.ハート著 矢崎光圀監訳『法の概念』(三陽社、1976年)

井上達夫著「何のための法の支配か-法の闘争性と正統性-」法哲学年報2005 現代日本社会における法の支配:理念・現実・展望 p. 58-70,198


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