記憶の丘
生まれて初めて流れ星を見た。
小学校低学年の夏休み、手を伸ばせば届きそうなくらい空を近くに感じる丘で。あんなに色のある夜空を見たのは初めてだった。
眼下に広がる、見渡す限りの光の一つも見えない草原は、夜の静けさの中にひっそりと溶け込み、私は無数の星を包み込んでいる空に吸い込まれそうだった。それはそれは綺麗な流れ星はとても神秘的で、その姿を見つけるのが難しかった。それにも関わらず、一瞬で消えてしまう様子を眺めながら、美しいものはなんと儚いのだろうと、子供心に侘しさとも、もの悲しさとも言えない、言葉にできない感情がじんわりと広がったことを覚えている。
幼い頃の記憶や感情は非常に曖昧だが、とても鮮明に、清らかな思い出として私の中に確実に蓄積されている。価値観や物事の捉え方は、子供の頃にその土台が構築され、今の自分という人間が出来上がっているのだと私は思う。
「お昼休みは何をしたの?」
「教室でお絵描きしたよ。」
「1人で?お友達と外で遊んだりしないの?」
「だって、みんなに合わせるのは疲れるし、1人でいるほうが楽しいもん。」
小学校に入学して間もない私にそう質問した母を、この子に友達はできるのだろうか、学校生活には馴染めるのだろうかと、あれこれ心配させたに違いない。そんな心配をよそに当時の私はというと、鉛筆の先や、指先から浮かび上がってくる世界に一人毎日胸をときめかせていた。厳密に言うと、みんなに合わせるのが疲れるのではなく、そのときめきに没頭しすぎて、友達と遊んでいる暇などなかったのだ。
物心ついた時から、絵を描くことやものづくりが好きだったように記憶しているが、小学校に上がってからの図工の授業は格別だった。家庭ではなかなか使うことがない道具や、高くて手に入らないような画材を思う存分使うことができたし、先生からは大体褒められた。好きこそものの上手なれと言うが、図工の授業は私の好きに火をつけた。絵画コンクールや夏休みにつくるアイデア貯金箱などで、いくつかの賞をもらったし、家族や友達からも称賛された。そんなこんなで私の鼻はどんどん伸び、天狗になりそうだった。というか天狗だった。
図工の時間、私は先生の教えなど聞いた覚えがない。
「紫と緑とオレンジと青とほんの少しの黄色」
夕焼けの空を眺めながら、どの色をどのくらい混ぜれば、あの色を作ることができるだろうかと考えを巡らせるのが好きだった。
この世界に存在する光にはいろいろな色が混ざり合っていて、空気の揺らぎや屈折などによって見える色が変わる。虹の色と同じ7色、人間の目で区別できる光の色には限りがある。しかし、思春期の鋭すぎる感受性は、私の目に見えるはずのない色まで見せた。
私が生まれ育った田舎の景色は、混ぜることのできる色がたくさんで、私の描画欲求を掻き立てた。中学生になってからも、絵画やものづくりに胸を躍らせるのは変わらなかったが、それと同じくらいに心惹かれたのが部活動だった。小学校から始めた陸上競技は、やればやるほど記録が出るので楽しくて楽しくてたまらなかった。当時、いわゆる中距離に分類される800mという距離を専門として練習をしていた私は、その過酷さの虜になった。きつくて苦しくてたまらないはずの一日の部活動が、終わった瞬間には明日の練習がやりたくて仕方ないと思うほどの酔狂ぶりだった。体力の限界という言葉を知らない中学時代は、私の最も戻ってみたい過去だ。あの頃の体力と肉体があれば大抵のことは乗り越えることができるだろう。走るのも運動するのも何をするのも、どんなに爽快だろうかと心が跳ねる。若さの特権を最大限に行使した、まさに黄金時代だった。
「県の中体連で1位になったら考える。」当時、犬が飼いたくて飼いたくてたまらなかった私は、母に何度も交渉した結果、そんな約束を作ることに成功した。幸いにも当時の私には、その課題を達成できるだけの自信があった。見事ミッションをクリアした私は、一番の相棒と出会うことができた。名前を呼べばこちらに全力で駆けてきてくれるその相棒は、今でも実家に帰ると「早く散歩に連れていけ!」と、私を急かす。大好きでかわいくて面倒くさくて、無くてはならない存在だ。あの時、ゴール直前の疲労とプレッシャー、そして極限まで溜まった乳酸で悲鳴を上げていた脚に、最後の力を振り絞れと指示を出して行動に移した自分を心の底から尊敬する。それ以上に、一番の相棒を与えてくれた母に心から感謝する。
「走っている姿がかっこよくて一目惚れした。」
そんなことを言われるなんて夢にも思っていなかった私に、その言葉は突然かけられた。小学校の頃からただがむしゃらに、前だけを見つめて走ってきたことが褒められたようで、純粋に嬉しかった。
高校の同級生だった彼は、野球部一の俊足で、後にも先にも出会うことが難しいような、稀にしかお目にかかれないという言葉がぴったりな人だった。高校生とは思えない程の広い視野で世の中や経済の動向を見据えていて、今の自分がやるべきことがはっきりと分かっているようだった。自分の将来についてやっと少し考え始めた私にとって、それはとても刺激的な出会いだった。思い返すと今でも胸がキュッとする、甘酸っぱい青春だ。
漠然としたやりたいことの中から、それを的確に見つけ出すことは難しかった。周りは目の前のことに必死で、将来を見据える余裕なんてなく、私も例に漏れず女子高生らしい話題や遊びに惹かれていた。正直、勉強が楽しいと感じたことはなかった。ただ漠然と、「大人になったら仕事をするのが当たり前。その時に困らないように、選択肢を多く持つことができるように、今のうちから勉強をしておかなければならない。」勉強とはそんなものだと信じて疑わなかった。決して間違いではないし、今思えばむしろ正しい選択をしたのかもしれない。少しだけ後悔していることがあるとすれば、勉強は楽しむものじゃない、という固定観念で将来を見据えてしまったことだろうか。子供の頃から抱いていた画家になりたいという夢は、職業候補から自然と外れ、私は実家から比較的近い場所にある県内の大学に進学した。
「外力が加われば、それに応じて応力が生じる。」
自分が生粋の文系脳であることを知りながら理系の学問を選んだことは、全く後悔していない。ものづくりが好きだから、かっこいいからという理由だけで建築学部を選んだことについても、自分を責めることは一切ない。しかし、最も苦手とする分野の勉強からどうもがいても逃れられないことを知ったとき、心の底から絶望した。力と同じように、均衡が保たれてこそ大学卒業が成立するのだ。よく卒業できたなと、自分のことながらいまだに信じがたい。
私の通っていた大学では、研究室に配属されるのは4年生からだった。年によって人気のある研究室は変わるそうだが、その年は設計をメインに行う研究室が人気だった。多くの学生が卒業論文ではなく、卒業設計をやりたいと思ったのだろう。成績が特に良いわけでもなく、教授に気に入られていたわけでもない私が、何かの手違いで配属されたその設計の研究室は、まさにクリエイティブという言葉を体現したような、優秀でユニークな人たちが集った。女の子だけのその研究室では、穏やかながらも強かに、各々が思い思いの空間を作り上げていた。もともと一人行動が得意な私にとっては居心地の良い場所だった。しかし、ひとたびお互いの設計や考えを披露し合う時間が始まると、その空気はガラッと変わった。まるで難関大学の面接官のように、自分以外の思考やデザイン、世界を吟味し、隙があればそこを突いてくる。その鋭さは申し分なかった。目の前が霞むような灰色とも、目が冴えるような青とも、凍てつくような白とも言えるような色だった。そんな色の空気を見た。温度も下がったような感覚だった。そんな雰囲気の中で、私は時折、胸が苦しくなるような、うまく息が吸えないような、そしてすごい力で背中を押されるような感覚に襲われた。あの時間は私の人生において必要不可欠だったのだと、今はそう思う。
正直言って、出来上がった卒業設計はお世辞にも良い作品ではなかったし、自分でも納得のいくものではなかった。当然、他の誰かの心に深く残るものでもなかったと思う。それでも私は、自分に合ったテーマの設計を最後までやり通した。人に良い評価をしてもらうことは重要ではなく、自然を守る建築、自然を感じる建築、建築は自然を壊すものであるということを大前提とし、懐かしさや記憶を呼び起こす空間であることが重要だった。自分の思いや思考をとことん追求し、それを実際に形あるものとして設計することに意味があったのだと思う。丸々一年かかった。一年では足りなかった。でも、その未完成さが私という人間を浮き彫りにしているようで好きだった。決して戻りたい過去ではないが、赤茶色、錆色、灰色という色が一番似合う濃い思い出となった。
「ニーズに沿うのではない。こちらがニーズを作り出すのだ。」当時、研究室の教授が言っていた言葉が時折頭をよぎる。「そんなことができるのは天才だけではないか。」と毎回思うのだが、仕事でもプライベートでもそれは、皆が目指していることなのかもしれない。真面目に話を聞かない代わりに、一言一句逃さないように書き込んだノートが、今では私の教本になっている。あの頃は理解することができなかった言葉も、今読み返すと物事の真髄を突いているようでならない。久しぶりに一から読み返してみようか。
大学で得たものは、ものづくりの本質を見極める力と、勉強は自分の好きなことを追求するための武器であるということだ。そのことに気づくことができて、私は本当に幸運だった。それは建築というデザインの表現手法を学んだからに違いない。やはり、私は目に映る景色や記憶にある風景、感じたことを言葉にしたり、絵にしたりすることが改めてとても好きだ。
「世知辛い。」
この言葉を文章ではなく、口にする日が来るとは思ってもみなかった。私の人生で史上最大のピンチが訪れた。大学卒業後の進路が決まっていない。笑い事では済まされない状況に、私は極限まで追い詰められた。濁りのない漆黒の黒、こんな色は初めてだった。私はここから立ち直ることができるのだろうか、そんなことを本気で考えてしまうほど窮地に陥っているとき、冷静な判断や思考はとても難しいのだということを思い知った22歳。同時に、私の心の弱さも知った。自分の弱さに深く向き合うことのできた時間が私の糧となることを強く願う。
人生どう転ぶかわからない、縁がどう繋がるかわからない。社会に出て初めて、窓を開け風に当たったような気分だった。思いがけず父の勧めで入社した職場で、私の人生は180度変わった。出会うはずのなかった人たち、訪れるはずのなかった場所、私はたくさんのものに触れた。流される選択も一概に否定はできないし、もしかしたら最善と言っても過言ではない選択なのかもしれないと思った。そんな出会いやご縁を繋いでくれた父に心からありがとうと言いたい。その職場は今では前職となったが、変わった人生の角度はそこを起点としている。色の彩度が上がり、今までよりもくっきりと人生の輪郭が見え始めたような気がした。
「何のために仕事をしているのか」という問いに対しては、誰しもが明確な答えにたどり着けないだろう。進路が決まっていなかった3ヶ月間、私は必死に「仕事とは何なのだろうか」と考えた。もちろん答えなど出るわけもなく、刻一刻と過ぎていく時間にただ焦ることしかできなかった。不思議なもので、手持ち無沙汰な時は何かをやりたくて仕方がないのに、忙しくて手に持っているものがこぼれ落ちそうな時は、その何かをすべて手放したくて仕方がなくなる。言い方はとても悪いし、不適切かもしれないが、私にとって仕事とは、ちょうど両手に収まるくらいの人生の時間を他の誰かのために費やす、究極の自己満足だと思う。そしてその自己満足に、もう少し色を付けてみるのも悪くないと思えるようになった時に初めて、やりがいを感じることができるのかもしれないと少し楽しみな気もする。
大学の卒業設計で計画地として選んだ場所は、あの夏の夜、星空を見上げた丘だった。無意識のうちに私の意識はあの丘に吸い寄せられる。朝から晩まで丘の上で過ごしたこともある。何をするでもなく、自然の音だけが聞こえる空間で、ただ時間の流れを感じながらぼんやりとするのが、あの頃の私にとって何よりも大切な時間のようでならなかった。今でもたまにあの丘に足を運ぶと、季節や時間によって変化するその場所は、いつでも私を温かく迎えてくれる。子供の時に見た、手を伸ばせば届きそうなほどの星空は記憶の片隅に埋もれそうになっては、自分の存在をアピールするかのように顔を出す。その度に私は、あの時の空間に色を付けるのであればどんな色だろう、今の私はどんな色を選ぶのだろうと考えを巡らせずにはいられない。これからの私の人生で、どんな新しい色と出会うことができるだろうと楽しみでたまらない。子供の頃の儚い記憶が、少し大人になった今の私とこれから先の私を結びつける。そうやって記憶を大切に、目に見える景色も見えない空気の色も感じられる自分でありたい。いつまでも、記憶の中にあるあの丘のように。