
小説「蝶とシマウマ」-25246文字
失くしてしまった何かをずっと探しているような気がする。
仕事には不満がない。
一人が好きな僕を構う妻も子供もいない。
四十を前にしたあたりから、その何かを探している。
いや、探してはいない。
待っているのだ。それが訪れるのを。
どんなものかもわからないのに。
僕は美術系の大学をでたので、いまの会社では主にポスター作りや季節の行事(クリスマスやお正月や七夕やら、諸々)の飾りを制作し、社内に飾る仕事をしている。庶務髁なんかここにはない。
自動車のホイール作りを扱うこの会社では、僕のいる部署を美術部と呼んでいる。ホイールのデザインを扱うのは本社のデザイン部というのがまた別にある。
この支社はあくまでも材料の金属を注文し製造までのサポートをするに留まる。
要するに、僕の会社は自動車のタイヤを作る仕事に特化している。本元は結構名の知れた大きな会社だ。
美大をでてしばらくは近所の子供に絵を教えていたが、それも辞め、かねてから憧れていたイタリアに行き、親からの仕送りとアルバイトで得た資金源で絵を描いていた。描いた絵は道端に並べて売っていた。数えるほどしか売れなかったが。
だから日本に帰ることに決めた。
日本に帰ってくると、親の脛をかじり絵を描くだけでは自立できないので、就職をすることに決めた。
求人誌をめくり、美術部なるものがあるこの会社を選んだ。そのとき、僕は三十歳だった。
面接には絵を一枚持ってくるよう命じられた。そこで僕はイタリア時代に描いた花屋で働く女性の絵を持っていった。
結果は採用だった。
そのときにはまだ先輩がいて、仕事は紙に描いた季節の絵を壁に貼るというものだけだった。
なんのモチベーションも湧かない、と僕にすべてを託し、先輩は会社を自主退職してしまった。
それからこれまでずっと一人でこなしていたが、僕の発想もネタが尽きた感が否めなく、もう一人、手伝ってくれる人材が去年の春に入社してきた。
彼女は当時まだ大学を卒業したてのほやほやで、なんでもかんでも僕にいちいち質問してくる。少しは自分で考えろ、といいたいが、質問もしないでわからないことをわからないまま自己処理しているよりかはましだと思う。
いまは三月。まずは春のイメージで、桜や菜の花をモチーフにして社内を飾ろうと思っていた。しかしそれもマンネリ化していたので、新たな案はないかと頭を捻っていた。
この会社は、社員の労働意欲を高めるために、ここにも力を入れている。遊び心があるのだ。
季節を感じ、部屋が賑やかで明るければ社員のモチベーションも向上する、と社長が考えたのだ。
幼稚園なんかを想像してしまうと思うが、レベルがちがう。
僕たちは美大に通い、感性を高めて入社したのだ。平面だろうが立体だろうが、その完成度に妥協はない。
昨年の秋にはプロジェクションマッピングで壁に絵を映し、舞い散る紅葉を堪能する作品を手掛けた。野生の鹿やリスなども登場し、大いに受けた。
十二月にはカラフルなセロハンを貼り、ステンドグラスを模した。そこに影絵でキリストの誕生、苦難、磔刑を描いた。これも評判は良かった。
僕が原案をだす。新人の彼女、幹本さんがそれをどう実現するのかを知恵をだし提案する。
二人で頭を突き合わせ、考える。
意見がでるまで待たなければならないのが相棒ができた面倒なところ。
作業ペースが高まったのは相棒ができた良いところ。
「草薙先輩、考えてますか? なんか目が遠くに行ってましたよ」
叱られるのもまた面倒なところ。
「いや、外にでればなにかヒントをもらえるんじゃないか、ってさ」
「出掛けてこられます?」
「幹本さんは留守をお願いします」
「わかりました。お帰りは何時頃になりますか」
「うん、まあ小一時間ってところで」
「いってらっしゃい」
僕はダウンジャケットを羽織り、社外へでた。
三月に入ったといっても、まだまだ寒さは厳しい。
今年は暖かくなるのが遅く、桜も開花が遅れるそうだ。
様々な店舗のウインドウを横目に通りを歩く。アイスクリーム屋がある。この寒い日に三人組の女の子が店内でお喋りをしながらアイスクリームを頬張っている。
牛丼チェーン店では、反対に男たちが背を丸めて牛丼に食らいついている。
昼間から開店している居酒屋がある。暖簾が上半身を隠す長さなので、なんとなくだが客数が見える。当たり前だが客は少ない。少ないが、この真っ昼間から呑んでいる人もいる。いったいなにをしている人だろうか。
コンビニのとなりのフィットネスジムでは、ランニングマシンで汗を流しているポニーテールの女性がいる。すらりとして充分に痩せている。ダイエット目的ではなく、運動が習慣化されているのか。
だんだん街中から外れていく。寒いから手をズボンのポケットに入れる。指に小銭と家の鍵が当たる。
途中、自販機で温かいレモネードを買った。
甘い。でもその甘さを求めていた。頭が回らないときは甘いものが一番だ。
だいぶ歩いて児童公園を通りかかる。入ってみる。僕と同じ年の頃だろう女性が砂場で遊ぶ小さな子供を優しげな目で見守っている。
おそらく女の子だろう子供はおむつを履いているのかスボンのお尻がパンパンで、しゃがんで丸まっているとまるでボールみたいだ。
赤いコートの袖が砂で汚れている。でも一向に構わないようだ。母親もそれについてなにか対処を取ることもない。
僕が子供の様子をじっと見つめていると、母親が僕を見ていった。
「草薙くん?」
え? 僕の顔はとても間抜けだったにちがいない。
だって、その女性に見覚えなどないからだ。
「草薙くんでしょ? 同じ美大に通ってた玉置美津子よ。いまはまだ岡田だけど」
「ごめん、覚えがない」
「ひどいなぁ。こんな美人を忘れるなんて。きょうはすっぴんだけど」
彼女はけらけらと笑う。
この笑い声。そういえば覚えがある。大学でいつも誰か数人とつるんでいて、その輪の中心で豪快に笑うのだ。
そうだ、四年のときに学校内のミスコンにもでて、優勝したんだったっけ。
思い出した。
「ああ、玉置さんね。ミスコンの」
「やっと思い出してくれたのね。嬉しいわ。だって、あたし、在学中あなたのこと好きだったんだもの」
「へ?」
突然の告白に僕は怯んだ。
「でも、そんなに接触なかったよね」
「もう、それだから男子は。遠くから見てたのよ。あなたとあなたの作品を」彼女はむくれていった。
「僕の作品?」
「そう、あれ、すごい良かった。えっと三年生だっけ。草薙くん、蝶々とシマウマを描いたじゃない? 飛んでいるいくつもの蝶々がシマウマの模様に溶け込んでいくの。あれ、すごかったなぁ」
「ああ、それね。学内のコンテストに応募したら金賞もらったんだよ」
「そうだったわね。あたし、自分のことみたいに嬉しくて」
「よく覚えてたな」
「あの絵、どうした?」
「あれは確か実家の僕の部屋にあると思うよ」
「どうして飾らないの? もったいない」
「過ぎたことに執着はしないんだ」
「どこかの画商にでも見てもらえばいいじゃない。高く売れるわよ」
「無名の、しかも学生時代に描いた絵なんて誰も評価しないよ」
「いや、あの絵は特別よ。世の中に出すべきよ」
「そういや玉置さんって、一学年上の吉川と付き合ってなかった?」
「あら、あたしのこと知らないっていっておきながら、結構覚えてるじゃない」
「少しずつ思い出してきたんだ」
「彼はあたしの従兄よ」
「そうなんだ。美形の家系なんだね」
「やめて、もうこんなおばちゃんになっちゃったし。子供もいるし。従兄もいまじゃお腹がでたおじさんよ。そういえば草薙くんはまったく変わらないのね」
二、三歳くらいの幼い子供が泥団子をいくつも作っている。鼻唄まで聴こえる。聴いたことのないメロディだ。自作だろうか。幼い子供というのは、ときに驚くような才能を発揮させる。絵画教室を開いているときによく感心させられた。
「そうかな。笑うとしわができるよ」
「素敵じゃない。眉間のしわよりよっぽどいいわ。いい生き方をしてきたのね。人相にでてる」
「そうかい?」
幼子は僕の足元に泥団子を並べはじめた。
「ひとちゅ、ふたちゅ、みっちゅ、ひとちゅ、ふたちゅ、みっちゅ」
三つまでは数が数えられるようだ。
僕はしゃがみこんで泥団子をひとつ手にとった。食べる真似をすると、彼女は大きくぱんぱんと手を叩いた。嬉しそうだ。ぷっくりとしている真っ赤な頬っぺたが可愛らしい。
「おいちいね?」彼女が小首を傾げる。
「うん、すごく美味しかった。ありがとう」
「どういたまして」
僕と彼女の母親は同時に笑った。
「えみりっていうのよ」
「そうか。えみりちゃん、お団子屋さんになれるよ」
「うん! えみり、なる!」笑うと頬っぺたがくいと上がり、目が細くなる。あまりの可愛らしさに頭を撫でずにはいられなかった。
「ところで、こんなところでなにをしているの? スーツを着ているってことは会社員なのよね」玉置さんの言葉でふと我に帰る。
「ああ、散歩さ。なにか仕事のいいアイデアが転がっていないかなと思って」
「へえ。見つかった?」
「そうだね、玉置さんのおかげで見つかったよ」
「あたしのおかげ?」
「うん、シマウマ」
「シマウマ? が、どうしたの?」
「そろそろ戻らなくちゃ」
「また会える?」
「どうかな。会社はここから近いけど。玉置さんもこの近く?」
「うん、いま実家に里帰り。じゃあ、この公園に来れば会える確率が高いってところね」
「そうかもね」
「また、会いましょ」
「運が良ければね」
「なによ、それ」
彼女は大きな口を開けて豪快に笑った。昔のような肌に艶はないが、鼻筋が通っていてすっぴんでも美しかった。
「じゃ、また」
「またね」
「えみりちゃん、ばいばい」
「ばいばい」彼女は泥だらけの手をパーにして思い切り振った。
僕は背を向け会社の方に歩いていった。振り返ると、玉置さんは小さな子供のコートの裾を手で払っていた。ほとんど飲んでいない手に持っていたレモネードは冷えてしまっていた。
会社へ戻ると、幹本さんがぷりぷりと怒っていた。
「なにが小一時間ですか。二時間も経ってるじゃないですか」
「ごめんごめん、偶然昔の知り合いに会っちゃって」
「女性ですか?」
幹本さんは僕をにらむ。
「な、なんでだよ」
なぜか僕は動揺する。
「ま、いいですけど。なにかアイデアは浮かびました?」
「ああ、それなんだけど、今年は桜を飾るのをやめて、蝶を飛ばそうと思うんだ」
「蝶を飛ばす?」
幹本さんは目を丸くした。
「うん、動物園風に」
幹本さんの顔が怪訝そうなものになった。
「動物園?」
「そう。蝶が動物に吸収されていくんだ」
「吸収?」
「うん。アゲハ蝶は虎に。紋白蝶はシマウマに。アオスジアゲハはくじらに」
「うーん、よくわからないです」幹本さんは眉間にシワを寄せた。
「よし、買い出しに行くぞ」僕は手をひとつ叩いた。
「え? イメージとか描き出さなくていいんですか?
「だいたいイメージはできてるし、行きながら説明するよ。店での出会いとかもあるじゃないか」
「まあ、それもそうですね。じゃあ行きましょう」
彼女も分厚いロングコートを羽織った。
僕たちは駅近の大きな商業施設の手芸店へ向かった。
「わあ、いろんなセロファンがありますよ」
「モールもカラフルだし太さもかなり幅があるな」
カラフルなセロファン紙とテグス、ゴム、針金にモールなどを買った。
それから100円ショップにも寄り、作り物の桜の枝と菜の花の枝を買った。たぶん使わないとは思うが、念のためだ。
戦利品をぶら下げて会社に戻ると、経理の女子社員に領収書を渡し、さっそくデスクにそれらをぶちまけた。
すぐとなりにデスクを並べている社員がにやにやとこちらを見ていた。
仕切りがないのだ。
木でできた作業する為の、大きめのデスクが我々には与えられている。そこで作業のすべてを行う。
「今月はどんなものを作るんですか?」すぐ横の席の若い社員が訊く。
「ふふん、内緒」僕ははぐらかした。
「楽しみにしててくださいね」幹本さんが笑顔で答える。
「それでだ、セロファンで蝶を作る。アゲハ蝶、アオスジアゲハ、紋白蝶だ」
「はい」幹本さんは真剣な眼差しだ。
「胴体はモールだ。セロファンで作った蝶を天井からぶら下げたテグスで縛りつける」
「はい」
「羽ばたいている様をコマ送りのように作っていく。どんどんと形を変化させ、動物に吸収されて一体となる」
僕はクロッキー帳に描き示した。
「なるほど」幹本さんの目が輝いてきた。
「アオスジアゲハはくじらにじゃないとだめですか?」
「どうして?」
「ひとつだけ海の生き物だから夏をイメージしちゃうんじゃないですか? それだったらゾウとかの方がいいんじゃないかな、と思いまして」
「そうだ! ゾウがいい! 青いゾウの鼻先に吸収されていくのがいいだろう。ナイスだ幹本さん」僕は親指を立てた。
幹本さんも興奮気味に頬を上気させている。
「これ、下手したら仕事中の方たちの気が散りませんかね」幹本さんは素晴らしいアシスタントだ。視野が広い。
「結構パソコンに集中してると上を見ないもんなんだよ。そこで目や肩が疲れたときに上を見上げる。すると羽ばたく蝶や動物が目に入り癒しを得る」
「なるほど!」幹本さんは頷く。
「きょうから蝶作りで二日、土日挟んで動物の絵に三日、そのまま張り付ける作業で一晩かけるぞ」
張り付け作業はみなが帰った後にしないと邪魔になる。
わが社は残業が少ないので、そこのところの心配はない。
ここは支店で、元から規模が小さいので、一人や二人の残業は構わない。みなが朝出社してくるまでに飾りつけを仕上げておく。
徹夜作業になるが、社員の反応を見届けると、僕らはその日一日と翌日に休みをもらえる。
いたってホワイトな会社だ。
ついでにいうと、女子社員が夜食にとコンビニでおにぎりやらお菓子やらを買い、差し入れてくれるときもある。社員同士の関係性も好ましい。
僕と幹本さんが、向き合ってデスクで蝶を作る。スピーカーからは微かな音で流行歌が流れている。
「あ! Mrs.GREEN APPLEだ!」一人の女子社員がいう。
「わたしも好き! いいよね、ミセス」
そんな会話も自由に交わされている。怒る人もいない。
僕と幹本さんは、黙々と作業をつづける。僕はアゲハ蝶を作っている。
タブレットでアゲハ蝶の画像をだして、それを見て忠実にセロファンで再現する。手の平大だ。模様が複雑だから、細かい作業に慣れている僕でも時間がかかる。模様部分は黒いセロファンをデザインカッターで慎重に切る。そしてそれを蝶々に型どった黄色いセロファンに糊で貼る。一ミリのずれも許さない。細かなところまで誰も見ていなくとも妥協はない。足りなくなったり破損することも考えて多めに作る。
幹本さんは、紋白蝶を担当する。さすが美大出身。要領もよく、さくさくと作っていく。正確性も大いに評価するところだ。なぜこんな小さな会社に就職したのだろうか。いつか飲み会の席ででも訊いてみよう。
幹本さんは集中していて、時計が六時を回ったことに気づいていない。
僕が「そろそろ切り上げていいよ」というと、はっと顔を上げて時計を見た。
「ああ、首がいたぁい」
「おつかれ。だいぶはかどったようだね」
「なんだか学生時代に戻ったみたいで楽しくて」
そういって晴れ晴れとした表情をした。
「デザイン科だったからな。デザインカッターの操りももう体の一部みたいだよ」
「草薙さんは日本画科だったらしいですが、なぜ
この仕事に?」
「まあ、そういった込み入った話は次の宴会でしよう」
「はい。じゃあお先に失礼します」
とてもいい子だ。歳が離れているせいか、恋愛対象には見られないが。サバサバしていて可愛い部下、といったころか。
一人、一人と残業を終え、「お先に」と帰っていく。家庭のない僕は帰宅時間を気にすることもない。
九時近くまでアゲハ蝶を作っていたが、自分で決めたノルマが出来上がったところで切り上げた。
電車をひとつ乗り継ぎ、二つ目の駅で降り、環八通りを八分歩く。
近代的なデザインのマンションが僕の住みかだ。持ち家だが、名義は父親のものになっている。七階建てで、その最上階に住んでいるから、夏でも窓を開け放したら涼しい風が取り込める。さすがに八月はエアコンに頼るが。
ホットアイマスクで目の疲れをとる。その
間に浴槽に湯を張り、風呂に入る。
喉がからからだ。湯上がりの火照った身体に冷たいビールは染み入った。
ツマミはししゃもと揚げだし豆腐とチーズだ。
しめに蕎麦を茹でて食べる。
すると眠くなってくる。ベッドに入り、静かな音楽をかけ、スマートフォンのメールやラインのチェックをする。読みかけの単行本のつづきを読む。瞼が重たくなってくる。誰も僕の睡眠欲を邪魔する者はいない。やがて眠りに落ちた。
朝はぎりぎりまで寝ていたい。とくにこの寒い季節は布団からでられない。
スヌーズ機能でしつこく鳴るスマホの目覚まし時計を解除する。
えいや!っと布団からでて、身支度をする。トーストをインスタントコーヒーで腹におさめ、家をでる。
最寄駅まで歩いて八分かかる。家の前は通学路になっているので、小学生の団体様といつも鉢合う。彼らのやかましさは、清々しい朝の空気をいつも台無しにしてくれるので、通る道を変えたいくらいだ。迂回すると十五分掛かるが、朝から呑気に散歩などしている暇はない。
満員電車を二駅で降り、別の路線に乗り換えだ。運が良ければ急行に乗れる。一本早ければ急行はくる。その一本に間に合うように駅に着ければの話だ。
そうすると、早く着きすぎて会社に一番乗りになる。
きょうはわりと早くに事務所に着いた。社員が二人コーヒーを淹れて飲んでいる。
「おはようございます」互いに挨拶をする。
道具をデスクに広げ、きのうのつづきに取りかかる。
次々と社員たちが入ってくる。朝の挨拶を交わす。
全員が揃うと、朝礼が始まる。
壁に掛かる社訓の額を皆で見上げる。
「学びは常にそこにある」
流麗な筆文字で書かれてある。それを復唱する。
皆で身だしなみチェックをし、「それではきょうも一日頑張りましょう」と所長が最後にいう。
それぞれが席に着く。こういうのも小さな支店ならではの風景なのだろう。
僕は一刻も早く作業に取りかかりたくてうずうずしていた。
だから、朝礼が終わるとそそくさと席に座る。
きょうはアオスジアゲハの制作に集中する。
紋白蝶の制作を終えた幹本さんは、アオスジアゲハも作らせてくれ、という。僕はタブレットのアオスジアゲハが羽根を広げている画像を見せて、切り取りの難しいところの注意点をいくつかあげた。
感の良い彼女は、うんうんと頷いて、デスクに着いた。
一番の難題は、動物と融け合っていく蝶たちの歪みを表現するところだ。
虎の背中、シマウマの横腹、ゾウの鼻先。それぞれに吸い込まれていく様を躍動的に表現できるか、だ。
それについては、僕がラフ画を描いているので、それを完成形にして仕上げる。
幹本さんはさすがの腕前だ。僕が直すところなどない。
正午になり、みなざわざわと席を離れていく。
僕は幹本さんに昼飯に行くようにといった。
「草薙さんは行かれないんですか」
「いや、あとで行くよ」
「なにか買ってきましょうか」
「ああ、それはありがたい。ならカップ麺とおにぎりをひとつ頼む。ああ、あとコーヒーも」
「カップ麺はなに味ですか?」
「味噌」
「おにぎりは?」
「ツナマヨ」
「コーヒーは?」
「微糖」
「はい、わかりました。行ってきます」
僕は、同僚たちがでていくのをちらりと見やり、デスクに目線を戻した。
ゾウの鼻先に融合していくアオスジアゲハの最後の姿を形どってデザインカッターで切る。
大学で日本画を学んでいたその筆を、カッターナイフに持ち変えた。僕だってずっと筆を操って生きていくものだと入学当時は思っていた。至極当然に。
ところが、そのうち日本画では食っていけない現実も耳に入ってきた。食えていける者になるのは十年に一人だ、と。
そういえば、高校も三年になり、美大の日本画科を受けたいと父親にいったとき、「日本画かあ、卒業後の潰しが利かないからなあ。でもまあ、やるだけやってみろ」といわれた。
だから、僕は日本画家になるべく大学で勉強をした。
しかし、やはり現実は高い壁に阻まれていた。大学を卒業すると、実家の和室で子供たちに絵を教える日々を送りながら自らも絵を描いた。
それが上手く行かなくなると、大学病院で外科医をしていた父親の脛をかじりイタリアに留学した。
その後は先に述べたとおりだ。
一見苦労人のように思えるだろうが、実際は父親の後ろ楯がないとなにもできない世間知らずだった。
でも、これまで経験したことは充分いまの僕の身になっていることは確かだ。
今回のアイデアも、美大の頃の作品からきている。それを鳥のように運んでくれたのが玉置美津子なのだが。
「ただいま、お待たせしてすみません。混んでて。いまカップ麺にお湯入れてきますね」幹本さんがバタバタと帰ってきて給湯室に入っていった。
ポットのお湯をだす音が聞こえ、やがてカレー味のカップ麺が僕の前に置かれた。
「すみません、味噌味が売り切れてて」
「ああ、いいよ。カレーヌードル好きだから」
「それと······」幹本さんは上目遣いでいいにくそうにしていた。
「どうした?」
「あの······ツナマヨおにぎりもなくて、天むすにしちゃいました」
「天むす美味そうじゃん。いいよ、気にするな」
「すみません」
「君のせいじゃない。腹に収まればなんでもいい」
幹本さんはレジ袋からサンドイッチを取り出した。
「それだけか?」
「はい、ダイエットしてるんで」
「半分肉体労働みたいなもんだから、しっかり食っておけ」
「はあい」
彼女はまるで母親から宿題をしろとでも命じられた子供のように返した。
昼食タイムが終わると、午後の就業までコーヒーを淹れに行く者、煙草を吸いに外へでる者、デスクに突っ伏して仮眠をとる者、三々五々だ。
僕はクロッキー帳を眺めた。
動物たちのデッサンは出来上がっていた。上を向いて咆哮をあげる虎。駆けるシマウマの脚の筋肉。鼻を振り回すゾウの躍動。
すべて頭に描いている。
蝶作りは思ったより早く出来上がったので、午後は動物の描写に時間を費やすつもりだ。
小規模のオフィスビルの一階にあるこの支店の間取りは、三十畳ほどの部屋と十畳ほどの部屋が仕切りなくLの字にくっついていて、入り口のドア、すぐそばの給湯室、その奥の備品室、広い方の部屋の窓と狭い部屋の方のロッカーと書類棚が置かれている壁以外は白いただの壁だ。
つまり、絵画を飾れるキャンバスになる。
三面もキャンバスがあるので、ちょうど虎とシマウマとゾウが描ける。
描くといっても直接壁に色を塗るわけではない。そこは不本意だが、大きな白い紙なり板なり発泡スチロールなりに描き、張り付ける。
今回は立体なので少し厚みのある発泡スチロールに動物を描く。発泡スチロールは備品室に保管してある。
まず、僕は発泡スチロールに虎の輪郭を描いた。縁は丸みを帯びさせるように削る。
僕は子供の頃から動物を描くのが得意だった。動物園に行きたいとせがめば、専業主婦の母は動物園に連れていってくれた。
母は僕がスケッチしている間、ずっと待っててくれた。たまに僕のスケッチブックを覗き込んでは、いいところを見つけて褒めてくれた。
「フラミンゴの一本足で立っている姿に安定感があるわね」「ライオンの獰猛さもよくでてるわ」「あら、それはおかあさん猿が子猿を可愛がっているところなのね」
そんな優しい母の元で、僕は思い切り絵が描けた。
いまは七十代だがレビー小体型認知症に罹患し、転倒が危ないからと介護施設に入所している。
休日にはなるべく面会に行く。ときどき僕の顔を忘れるが、自分の一人息子だと認識すると、顔を綻ばせる。母には感謝しかない。
発泡スチロールをカッターナイフで削ると、デスク上にこぼれ落ちている細かなゴミをハンドクリーナーで吸い取る。
Yシャツにも静電気でくっついている。それを払い落としクリーナーで綺麗にする。
成型すると、絵の具で色を塗る。ここからは日本画科卒の腕の見せ所だ。
まずは虎から。四肢の力強さを描く。それが出来たら顔だ。咆哮をあげる口の開き、牙から歯茎まで丁寧に。鼻に艶を持たせる。眼光は鋭く。髭まで根気強く。尻尾は折れやすいから扱いには気をつけて。Sの字に曲がる背骨まで浮き上がるかのように身体の模様を塗っていく。
そして蝶と繋がる一つ目のラインを描き終えた。
乾くまでには時間がかかる。歪んだ最初の蝶を貼り付けるのはシマウマを成型してからにしよう。
ここまでで一日を終えた。
幹本さんは象の形に発泡スチロールを切り、ヤスリを掛けている。スーツに削りカスがいっぱいついているが、気にもとめず真剣な眼差しで発泡スチロールと格闘している。
僕がきょうの行程を終えたことを伝えると、彼女は「鼻まで仕上げたいのでお先に帰ってください」といった。顔にも削りカスがついている。
「そうか、じゃあ先に失礼するよ。おつかれ。鏡見てから帰るんだぞ」僕はほくそ笑んだ。
「え? どういうことですか?」
「顔中発泡スチロールだらけだぜ」
ぽかんとしていた彼女だが、さすがに慌てて顔を擦り、「やだ、ほんと」と苦笑した。
「んじゃ、また週明けに」
「お疲れさまでした」
家に帰って着替えてからソファに座ると、想像以上に身体が疲れていることに気がついた。絵筆を持つことには衰えがないが、目や腰に疲労を感じた。
来年には四十になる。仕方のないことか。独身を貫き通していつまでも若者の気分でいたが、寄る年波には勝てず、といったところだろう。
朝にシャワーを浴びることにして、レトルトカレーを腹に収め、早々にベッドに入った。
僕は夢を観ていた。僕が小さな子供と遊んでいる。僕のとなりには誰かわからないが女性がいる。ぼやけていて顔の判別がつかないが、笑っていることだけはわかる。朗らかに。
なんとなく穏やかな気持ちで目が覚めた。
その日は意識すると止まらなくなるので、近所の川沿いを軽くウォーキングした。
挽き肉たっぷりのキーマカレーを作り、ビールと一緒に夕食を楽しんだ。
日曜日は雨が降っていて、食料を調達する気も失せ、インスタントラーメンで晩飯を終えた。
翌朝、時計を見ると、七時半を大きく回っていた。慌てて起きて、シャワーを浴び、髭を剃ってロールパンを牛乳で流し込み、家を飛び出た。
あいにく急行電車が来ないタイミングだったので、会社に着いたときには五分遅れていた。
社訓をみなで読み上げているところだった。物音をなるべく立てないようにして持ち場に立つ。
「珍しいですね、遅刻なんて」
各自デスクに座ると、幹本さんが僕にいった。
顔がにやついている。
「僕も目が覚めてびっくりしたよ。アラームが鳴る前に目が覚めることはあっても寝過ごすことはないからさ」
「疲れが溜まっているんじゃないですか。一日くらい休んでもいいんですよ。わたし、一人でもやれますから」
「象の成型はできたのか」
「え? いや、まだ、です」
「なにが一人でもできるだよ。生意気いうな」
「あ、それパワハラです」
「手を動かせ。口ではなく」
「はあい」
悪い子ではない。それは承知している。可愛いとすら思う。もちろん性的な意味ではなく。
この日はシマウマの成型に取りかかる。
発泡スチロールの板を備品室から運んできた。
下描きをする。
こちらは虎ほど複雑ではない。
平原を駆けるシマウマの疾走感。
たてがみをすこし長めに描く。変形した蝶が入り込みやすいように横腹あたりに黒い模様を集める。下描きはできた。
どんなだったかな。ふと学生だったころの絵を思い出す。蝶が取り込まれていくシマウマの生命力を表す必要があった。
耳は案外丸っこかったんだよな。
タブレットで模様を再確認して絵筆を取る。
ここからは神聖な時間だ。誰にも邪魔は入らせない。
「······しますか?」声がどこからか聞こえてくる。
「え?」ようやく現実世界に還ってこれた。
「もお、草薙先輩。集中するのはいいんですけど、こっちの人間の言葉にも耳を傾けてください」
「ごめんごめん。なんだった?」
「お昼ごはんです。また買ってきましょうか」
「ああ、頼む。カップ麺とおにぎり。任せる」
「コーヒーは?」
「微糖」
「行ってきます」
幹本さんは黒いコートを羽織り、でていった。
僕は作業に戻った。絵を描くことはとても楽しい。僕の唯一の武器だ。
大学時代を振り返る。そこは創造することに喜びを感じている者たちばかりが集まり、まるでブラックホールのような異常な密度があった。濃く、強く、激しく。
通っている生徒も変わり者ばかりで、イチローを真似た野球のユニフォーム姿や医者が着る白衣を翻して廊下を歩いているような者もいる。
卒業式などはまるで仮装大会で、中にはどこで手に入れたのか金田一耕助の服装をしている者もいた。あの特徴的な帽子まで身につけて。
僕は「天空の城ラピュタ」のパズーの格好をした。帽子やゴーグル、ベスト。簡単に揃えられた。
卒業式に何を着るのか訊いてきた女の子がいて、僕はパズーになるというと、「それならわたしシータにするわ」と、当日紺のワンピースにお下げ髪にして赤いカチューシャを着けてきた。
二人揃って写真撮影に応じるのが大変だったことを思い出す。
「なにニヤニヤしてるんですか」帰ってきた幹本さんに見られてしまった。
「いや、大学の卒業式のことを思い出していたんだ」
「ああ、ほとんど仮装パーティーでしたよね」
「幹本さんはどんな格好をしたの?」
「わたしはセーラーマーキュリーです」幹本さんは表情を崩していった。
「セーラーマーキュリー? なにそれ?」
「え、知らないんですか? セーラームーン」
「ああ、なんとなく知ってるよ」
「仲良しグループで決めたんですけど、わたし、髪を短くしてたから、セーラームーンにはなれなかったんですよ」
「へえ」セーラームーンってどんな髪型だったかな、と頭を巡らせた。
「草薙先輩は? なにを着たんですか?」
「天空の城ラピュタのパズーだよ」僕がそういうと、幹本さんは目を見開いた。
「ええ? 見たい! 写真とか残ってないんですか?」
「あるわけないじゃないか。二十年近く前のことなんだから。スマホもまだない時代だぜ」
「見たかったなあ。草薙先輩のパズー」そういって幹本さんはレジ袋を僕に差し出した。
「ありがとう」僕はポケットから五百円玉をだして彼女に手渡した。
「シータがいたら完璧でしたね」幹本さんはまだ卒業式の興奮の中にいる。
「いたよ。同じ日本画科の子」
「付き合ってたんですか?」
「いや、付き合ってはいない。なにを着るか迷ってたそうで、僕がパズーになるといったら、それならとシータにしたんだ」
「へえ、見たいなあ。草薙先輩のパズー」まだいっている。
僕はカップ麺にお湯を入れるため給湯室へ行った。
戻ってくると、幹本さんはクロッキー帳になにやら描いていた。そしてそれを僕に向けて掲げて見せた。
「セーラーマーキュリーです」
セーラー服を着てポーズを決めている女の子の絵だ。知らないキャラクターだが、絵は上手い。
「スカートそんなに短いのか」
「もう、男性はこれだから。本当にこんなに短いスカート履くわけないじゃないですか」
「そうか。それもそうだな」僕はカップ麺の蓋を剥がして割りばしを割った。スープを啜る。やっぱり味噌味が一番美味いと思った。
午後はシマウマの模様を描くつづきに専念した。幹本さんも象の明るい青色の絵の具をパレットで溶かして作っていた。
「草薙先輩のラフ画みたいに勢いのある象が描けるかな」幹本さんがぽつりという。
「やるんだ。かならず自分の糧になる」僕は向かい合って作業している彼女に力強くいった。
「はい」短い答えだが、決意を感じさせられるものだった。彼女は信頼しても大丈夫だと思った。
僕がシマウマを塗ってしまうと、乾くまで昨日塗っておいた虎に最初のアゲハ蝶をくっつける作業に取りかかった。
細く歪めたパーツを慎重にくっつける。それにすこし蝶の形に近づいたものをくっつける。
そうだ、僕はこんな絵を描いていたんだ。自分でも若さからくるパワーがあったなと思う。しかしいっぽうで、すこし円熟味を増したいまのスタイルの方が僕には良く思えた。
イタリアでの経験も大いに役立っている。
フィレンツェでは、レオナルド・ダ・ビンチをはじめ、ボッティチェッリやラファエロなど有名な絵画を生で観ることができたし、なにより街全体が絵画そのもののように美しかった。
便利さが行き届いた日本も住みやすいが、やはり古い町並み、石畳や揺れる洗濯物の風景、朗らかなイタリアの人々の暮らしぶりが、僕の創作意欲を掻き立てた。
「······先輩」
「え?」顔を上げると、幹本さんの膨れた頬がそこにあった。
「もう、油断すると草薙先輩ったらすぐにあっちの世界に行っちゃうんだから。帰ってきましたか?」
「ああ、ごめんごめん。なんだった?」
「象も仕上がったので、観てもらえますか」
幹本さんの象の絵は、力強さより軽やかさが目立っていた。僕がそういうと、「やり直しですか?」と上目遣いで僕を見た。
「いや、いいよ。もうすこし重みが欲しいが、躍動感はあるからこのままでいいよ」
「やっぱり重厚さはありませんか。そうだろうなと自分でも思ってました」
幹本さんは瞬きをして、長い睫毛を伏せた。
「ぜんぜん悪くないから、合格だよ」
僕が慰めるようにそういうと、幹本さんは、ふう、とひとつため息をついた。
そうして勉強していくのだ。経験をひとつひとつ積み重ねて。入社したての頃を思えば、ずいぶんと腕を上げていた。デッサン力があるので、デザイン科卒といえども絵を描く基礎は出来上がっていた。
いよいよ、飾りつけをする作業に取りかかる。基本的に社員が帰るのを待ってから行うので、スマートフォンで暇潰しをしていた。
幹本さんは天井からぶら下げる蝶のテグスの長さの調節をしていた。
「お先に失礼します。明日楽しみにしてますね」
八時過ぎに最後の女子社員たちがおにぎりやポテトチップスなどの食料の入ったレジ袋を置いて帰っていくと、我々は備品室から脚立を持ち出して、白い壁に向かった。先ずは虎から貼っていく。日本画の要素を含む為に、縦長の構図に決めた。
発泡スチロールの背中に両面テープを貼り、壁にくっつける。そう大きなものではないから落下することもないだろう。
歪んだ蝶は貼り付いているから、そのつづきの蝶を天井からぶら下げた。蝶が羽を上下して飛んでいるのがわかるように、テグスを天井にホッチキスで止めた。羽を広げているもの、閉じているもの、交互に止めていく。
脚立に乗っていると、全体が見渡せない。幹本さんに指示をお願いする。
虎が終わると、次はシマウマだ。ここで僕の腹が鳴った。
「お腹空きましたね」
「さっき差し入れてもらったおにぎりを食べようか」
「はあい」
幹本さんはすこし疲れた様子でレジ袋を、がさごそとまさぐった。
「いくらと天むす、ねぎとろ巻き、海老マヨ巻き、色々ありますがどれがいいですか」
「いくらかな。あ、でもねぎろともいいな」
「はい、おふたつどうぞ」
幹本さんはおにぎりを僕に手渡し、しげしげとデスクの上のシマウマを見つめていた。
「やっぱり草薙先輩はすごいです」
「なにがすごいんだよ」
「たてがみの一本一本にまで神経を行き届かせる。絵が本当に上手なんですね。羨ましい」
「なにいってるんだ。いま君は修行中なんだから、吸収することに専念するんだ」
「はい」幹本さんはしおらしくなった。
シマウマを同じく両面テープで壁に貼りつけ、吸い込まれていく歪んだ形から上下に羽ばたく蝶を、天井からテグスでぶら下げていった。
作業をしていたら十一時を過ぎていた。
「疲れてないか」
「はい、まだ大丈夫です。もうすこしですから」そういうが顔に疲労の色が見てとれる。
僕は自分の仕事を終え、幹本さんの作品を眺めていた。振り上げた鼻の先からアオスジアゲハが吹き上げられる。天井にもホッチキスでテグスの蝶を翔ばせていた。
すべての作業が終わると、改めて全体像が見ることができた。
それは充分に満足できる仕事となった。
「草薙先輩の虎とシマウマ、カッコいいですね」
「象もカッコいいよ」
「みなさん、出勤したらなんていいますかね」
「うーん、どうだろうなあ。圧迫感がなければいいが」
「あたし、もう限界」そして伸びをして肩甲骨を回す。
「帰ってもいいぞ。もうやることないし」
「みなさんの反応が見たいじゃないですか」
「それまでどうする?」
結局、コンビニで摘まみと酒類を買い込んできて酒盛りを始めた。
「んでね、ほんとうは、日本画コースか彫刻を学びたかったんですよ。そしたらそんときの担任に、デザイン科を勧められて、就職がまだ有利だからって。絵の実力なんか認めてもらってなかったんですよね。わたしの絵なんかろくに観てないんです」
幹本さんはさきいかを齧りながら、ずっと同じ話をしている。
酒乱というほどではないが、絡み酒の傾向があるようだ。
「幹本さんはどうしてこの会社を受けたんだ?」
「はい、あたし、大学では落ちこぼれで、就職できる会社なんかないぞ、って先生にいわれてたんですよ。トヨタや日産に就職の内定が決まっている子もいましたし、焦りましたが、ここの求人募集をたまたま見つけて。ここならなにか得られるんじゃないかって」
「そのなにかは得られたか?」
「まだわかりません。でも、わたし草薙先輩に認められるように頑張りますよ」
「頼もしいなあ」
「いつか追い越しちゃうかも」ははは、と彼女は笑った。
それにしても、サワー系の甘ったるい缶チューハイ二本でこれだけ酔うということは、酒にはあまり強くないようだ。
そのうち机に突っ伏して寝てしまった。
僕は幹本さんの背中にダウンジャケットを被せ、あらためて周りを見渡してみた。
うん、上出来じゃないか。
胸ポケットからスマホをだした。作品群を写真に収める。
ついでに幹本さんの無邪気な寝顔も撮っておき、「戦士の休息」とコメントを入れ、本人にラインで送っておいた。
翌朝、社員たちが出勤してきた。
僕らの創造物を観て、それぞれ意見を述べていた。感想は悪くないようだ。
「シマウマ、カッコいいですね」経理の女子社員がいう。
「虎、すごい迫力だな」男性社員もしげしげと観ている。
幹本さんは不安そうな顔をしていた。
「象ってこんなに青かったっけ。でも可愛い」
その言葉で、幹本さんに笑顔が戻る。
みなが天井からぶら下がる蝶を観て、感心しきりだった。
「力作だな。本物みたいだ」という者もいた。
「それじゃあ、僕ら帰るんで」
「お疲れさまでした。ゆっくり休まれてくださいね」
「ありがとう」
僕ら美術部の二人は退所した。
駅の方まで歩く。幹本さんは「可愛い」と評されたことを気にしていて複雑な様子だ。
「わたしの象、カッコいいって誰もいってくれなかった」
「いや、良くできていたよ」
「ほんとですか?」
「可愛い象だよ」
「その、可愛い、が微妙なんですよ。褒められた気がしなくて。みんな草薙先輩の虎やシマウマにはカッコいいっていってたじゃないですか。可愛いはやっぱり微妙です」
「可愛いも褒め言葉だよ。素直に受け取れ」
「はあい」
まだ納得がいっていないようだ。
「しっかり休むんだぞ」
「あれ? 草薙先輩電車に乗らないんですか?」
「ちょっと寄るところがあって」
「え? なんかのお店ですか?」
「いや、日常があるところ」
「日常? なんですか、それ?」
「とにかくそこに行かないとならないんだ」
「そうですか。わかりました。じゃあお休みなさい」
「お休み」
僕は公園に向かっていた。もしかしたら玉置さんに会えるんじゃないか、と淡い期待を持って。
自販機で温かいレモネードを買った。
それを飲みながらブランコに乗っていた。
体感温度は寒いが、空を見ると塗ったような平たい青空が広がっていた。日差しを受けていると、もうすぐ春なのだなあと思った。土の匂いも鼻をくすぐる。
ブランコに乗りぶらぶらと揺らしていたら、背後から声が降った。
「草薙くん」
振り返ってみると、玉置さんが幼子を抱いて立っていた。
美しい笑みを浮かべている。
「玉置さんに報告がしたくて」
「わたしに会いに来てくれたのね。嬉しいわ」
僕がポケットからスマホをだすと、玉置さんは「なになに?」と覗き込んだ。顔が近い。僕は頬が熱くなった。
「こないだここで会ったとき、大学時代のシマウマの絵のことを話したの、覚えてる?」
「もちろんよ」
玉置さんもとなりのブランコに腰掛け、膝に子供をのせた。
「で、なんの報告?」
「春の飾りを作ったんだ」
僕は簡単に仕事の内容を説明し、スマホで撮影した部屋の様子を見せた。
「わあ! すごい迫力ね。虎なんか咆哮まで聞こえてきそう。あ、シマウマだ。懐かしいわ。あの絵が立体になったのね」
「玉置さんにヒントをもらったんだ。礼がいいたくて」
「お礼なんかいらないわ。全部草薙くんの力じゃない」
「ぱぱ、ぱぱ」
えみりちゃんが僕に抱っこをねだった。
「ぱぱ?」
「ごめんなさい。父親に会ってないから、男の人を見ると、ぱぱっていっちゃうの」
「実家に帰ってるって、そういうことか」
「そういうことなの」
僕はえみりちゃんを抱っこした。えみりちゃんは、僕の手を掴み、ぱぱといいながら僕を見上げた。
「ごめんなさいね」
「いいよ。えみりちゃん、お砂で遊ぼうか」
そう声をかけると、えみりちゃんは「うん!」と満面の笑みを浮かべた。
僕とえみりちゃんが砂場で遊びだしたが、玉置さんはまだ僕のスマホをいじっていた。
見られて困ることなどないから、渡したままだ。
「この子、いまの相棒?」
象の脇で遠慮がちにピースをしている写真だ。
「そうだよ」
「ずいぶんと若いのね」
「でも、仕事は丁寧だよ」
「買ってるのね」
「まだまだひよっこだよ」
「草薙くんのこと、好きなのよ、きっと」
「それはないな」
「だって写真からでもあなたをすっかり信用してるように見えるし、あなたを見る目がそういってる」
「占い師かよ。それは絶対にないから」
「女の勘を甘く見ちゃだめよ。わたしが好きだったことにも気づかなかったくらいだもの」
「それ、ほんとかよ」
「嘘いってなんの得があるのよ」
「僕だっていまいわれてもなんの得にもならないよ」
「ひどぉい」
玉置さんは口を尖らせた。
「えみりちゃん、僕はもう行かなきゃならないから、またね」
「ぱぱ、だめ。いっちゃだめ」
その大きな瞳にはみるみる涙がたまっていった。それがぽろぽろと溢れると、僕の胸は痛んだ。
ここで情けをかけるとあとが辛いことになるので、僕は微笑んで「じゃあね」といった。
玉置さんに向けて手刀を切ると、彼女は泣きじゃくる幼子を抱いて、申し訳なさそうに頷いた。
後ろ髪が引かれたが、ここはぐっと我慢が必要だった。
家に帰り、ベッドに身体を投げ出した。
徹夜明けはいつも後頭部がじんじん痛み、疲労感でなにも考える暇もなく眠りに落ちる。
しかし、今日はちがった。
あの親子のことが気になって仕方がなかった。泥だらけの小さな手。辛抱していたのだろう。母親の頑張って口角を上げた笑み。
言葉は含んだものだったが、近いうちに彼女らが母子家庭なるのは避けられないようだ。
同情がいらぬ方に進まなければいいが。自制心を持たなければ。自分にいい聞かせる。
目を覚ますと、夜の八時になっていた。小腹が空いたので、パスタを茹でた。和えるだけのバジルソースと絡めて食べた。
いつもならビールでも飲むところだが、幹本さんと打ち上げをしたので、身体がアルコールを欲していなかった。
パスタをフォークでくるくる巻きながら、考えていた。
えみりちゃんの小さな胸は悲しみでいっぱいなのだろう。彼女の母親だってそうだ。
でも、僕がしてあげられることなんてない。 大人の事情に子供が振り回されるのはあってはならないことだが、それを乗り越えてあの親子はこれからを生きていくのだろう。玉置さんのあの明るさでえみりちゃんも救われてくれるといいが。
僕はパスタを平らげて、またベッドに戻った。身体の疲労感は抜けていない。
明日は休みだ。眠れないから、バーボンでもあおって寝ちまうか。結局酒の力を借りる。
翌朝、八時に目を覚ました。アラームはかけていない。もっと寝ていたかったが、なんとなくこの時間になると体内時計が起きろというのだろう。
僕はシャワーを浴びてゆっくりとコーヒーを飲んだ。腹は減っていない。着替えて部屋をでた。
タクシーを捕まえ、乗り込むとだいたいの走路を告げた。東京都と神奈川県との境目、川崎市に実家はある。
いまは父親が一人で暮らしている実家も、手入れが行き届いていない箇所が目立つ一軒家になっていた。
かつては母親がガーデニングに凝り、鮮やかな花を咲かせる美しい庭があった。
それももう廃れ、半年に一度清掃業者に頼み雑草駆除をするのみになっていた。
大学病院に勤めていた父親もリタイアをし、母親の暮らす介護施設に通っているか、本などをゆったりと読む隠居生活を送っていた。
僕がタクシーから降りると、父親は庭でゴルフの素振りをしていた。
「おお、達彦か。久しぶりだな」
「休みなんで、ちょっと寄ろうと思ってさ」
「母さんのところには行ってるのか」
「ああ、行ってるよ」
「そうか、寒いから中に入れ」
「うん」
父親はプライドは高いが、家族には優しい。
父親前として横暴に振る舞ったことはない。
僕は両親から本当に助けてもらいながら生きてきて今日がある。
まだなんの恩返しもできていない。
しかし、父親もまだ人生先が長いと思いたいのか、僕にはとくに期待はしていない。
様子を見にこうして帰ってきても、お茶ひとつ僕に淹れさせない。
部屋はすこし散らかっているが、父親なりに気をつけているのだな、という痕跡が見える。
「なにかあるのだろう」緑茶を啜りながら父親はいった。
「なんで?」
「何年おまえの親をやっていると思ってるんだ。顔見りゃわかるさ」
「いや、用事というほどのことじゃないよ」
「なんだ」お茶に添えられた羊羮をフォークで小さく切って口に入れ、いった。
「昔の絵を探しにきたんだ」
「達彦の絵はみなそのままおまえの部屋にしまってあるよ」
「うん、知ってるよ。ただ、探したい絵があってさ」
「大学時代の達彦の絵は力作ばかりだったな」父親は笑んだ。
「それじゃあ、いまはまるでだめになったみたいな言い回しだな」
「いや、そんなことはないさ。イタリアで描いた絵も素晴らしい。個展でもひらけばいいのに、って思っとったよ」
「いいんだ。いまの生活に不満もないし。一月に一度、季節が変わるごとになにかしら作って、それが楽しいんだ」
「シーズンオフは封筒に住所印押して書類を入れる仕事だろう。遊んでいるようなもんだ」
「なんか含んだようないい方だな」
「孫だよ。わしたちは孫に会いたいんだ。子供もおまえ一人だしな。周りを見ると、みんな孫自慢ばかりさ」
「またそれか。僕は家族を背負う覚悟なんてないんだ」
「子供は嫌いか」父親の眼光が鋭くなる。
「いや、嫌いじゃないよ。可愛いとさえ思う」なぜか玉置さんの子供のえみりちゃんが脳裏をよぎった。
「じゃあなんでなんだ?」
「うーん、いろいろ背負いたくないんだよね。相手のことというより、相手の家族とか。めんどくさいんだ」
「おまえが自分の人生を生きてきたように、それを子供にも伝えるんだ。わしにも伝えさせてくれ。生きることは楽しいことだ、と」
「どうしてそんな風に達観できたんだよ。外科医が楽しいってどういうことだよ」
「いいか、達彦。楽しむんだ。それを後世に伝えろ」
こんなに暑苦しいことを考える人だったかな、と僕は首を捻った。僕の知ってる父親像は敏腕の外科医で常に人に囲まれ、賑やかでおおらかな人だった。
すこし歳をとって気弱になっているのか。
それとも僕にはいわない何か病にでも罹患しているのか。
「父さんはリタイアして楽しく暮らせてる?」
「わしか。わしは死ぬまで生きるよ」
あえて突っ込んで訊かなくともいいたいことはわかる。
「そりゃそうだ」
僕と父親は互いに笑い合った。
それから僕は二階にある僕の部屋へと階段を上った。
遠い昔の作品は、僕の美しい思い出を語ってくれるだろうか。
ふと気になり、クローゼットを開ける手を止めた。
僕のデスクには、十冊以上のスケッチブックが立てかけてある。僕がそうしたのではない。母親か父親がまとめて置いてくれたのだろう。
一冊手にとり開いてみる。
驚いた。
そこには若々しい情熱の縮図があった。
ページをめくる。
それらを自分が描いたことに信じられない思いを覚えた。
人物や風景、猫に鳥。猫などいまにも動き出しそうだ。
そうだ。絵画創作が僕の根幹を成していたのだ。
僕のすべてが。
クローゼットを開ける。
懐かしい絵の具の匂い。
キャンバスを取り出す。
生き生きとした人物たち。風薫る草原。波の音が耳に届く青い海。惜しみながら沈んでいく夕日。
すべて僕が生み出した創作物。
すごい。
自分が一番信じられなかった。
二十年前の僕のありったけの情熱。
「描きたい」僕は呟いていた。
「思い出したか」ふと背後で声がした。
「父さん、僕、また絵を描きたい」
「描けばいい。いまの力量で勝負できるものを」父親の眼差しが強く心に届いた。
クローゼットをまさぐっていると、シマウマの絵があった。いくつもの蝶が黒いシマに吸い込まれていく。M10号のキャンバスだから、そこそこ大きい。
発泡スチロールで作ったものが、まるでちゃちに思える。
僕はいまの感情を持て余していた。
これをどうしたいのかがわからなかった。
「その作品は素晴らしい。だが、いまならもっと良いものが描けるはずだ」
「これを越えられるかな」
「描けるさ」
父親の言葉には確信があるように感じた。
そうか、僕にはまだ自由があるのだ。
自分の人生を彩っていける自由が。
自由を行使していくのだ。
僕は先ず退職願を書いた。いますぐではない。いまの覚悟を一時的でヒステリックな感情ではないか、と客観的に見られるまで。
そして、幹本さんが一人ででもやっていけるか見守ってから。
ところが、今回の飾りつけが本社でも話題に上っていたようで、本社からの見学者がでる始末だった。
本社社長まで直々にやってきて作品を見渡していた。
社内報にも記事にし、一面を飾ることになり、そのためのインタビューを幹本さんと二人で受けた。
五月末まで作品はそのまま残されることになった。
僕は、退職願を提出するきっかけを見失っていた。
四月に入り、ダウンジャケットも要らなくなり、僕と幹本さんは雑務をこなし、静かにお喋りをしていた。
お喋りといってもやはりそこは六月からの飾りつけについて真面目に話し合った。
「これを越えられるものが作れるか心配」幹本さんは弱気だ。
「今度は幹本さんが発案するんだ」
「ええーっ。困ります、そんな······一人でなんて無理ですよ。一緒に考えてください」
「大丈夫だよ。そんなに肩肘張らなくても。六月といえば、って連想ゲームみたいにして考えるんだ」
「六月といえば、雨ですかね」
「いいね」
「ええ? もう。雨といえば傘、でしょうか」
「そうそう、その調子」
「今回みたいに立体にすると、傘をぶら下げるとかになっちゃいますね。ヤクルトスワローズファンじゃあるまいし。あはは」幹本さんは自嘲気味に笑った。
「傘をまるまるぶら下げるのでは芸がないな。それに、そういう飾りつけはもう存在してるしな」
「あ、ハウステンボスでしたっけ」
「ああ、アンブレラスカイといって発祥は確かポルトガルかな」
「うーん、どうしよう」幹本さんは頭を抱えてしまった。
「どうした、作業の手が止まってるぞ」
「はあい」
彼女は三つ折りにした紙を封筒に入れていた。僕が糊をつけて封をする。
「でもなあ、せっかく精魂込めて作っても仕舞いには燃やされちゃうからなあ」
「それも芸術だ」
「芸術は爆発だ!」
僕らの話を聞いていたのか、すぐ脇のデスクの社員が急に叫んだ。
僕は「古いよ」と笑ったが、幹本さんはきょとんとして「なんですか、それ」といった。岡本太郎なんてこの世代には知るはずもないか。
この楽しさも失い、自分の力量だけで生きていく世界に踏み込んでいくのか。僕はすこし寂しくなった。
いつまでも退職願を手から離さないからそう思うんだ。
昼休み、僕はデスクで愛妻弁当を食べている所長の前へ進みでた。
「お食事中申し訳ありません。いま、すこしだけよろしいですか」
所長はギョロ目をさらにぐりぐりと回して僕を見上げた。
「なんだね」
「これを」そういって太い字で書かれた退職願をデスクに差しだした。
「そうか。そんな気はしていたんだよ。前の井原くんも同じ顔をしていた」
「そうでしたか。でも、すぐにというわけではありません。幹本さんの教育もまだ終えていないので」
「そうだな。幹本くんが一人でやっていけるか見極めてからにしてくれ。つられて自分も、なんて急に辞められたら困るからな」
「はい。きちんと見極めます。それまでこれは預かっていてください」
「わかっとるよ。日数は設けないから、よし、いい、と思ったらいってくれ」
「はい、ありがとうございます」
同じく手弁当を食べていた同僚が僕に声を掛ける。
「辞めちゃうんすか?」
「ああ、すぐにではないんだけどね。幹本さんの耳にはまだしばらくは入れないでくれないか」
「そうですね。彼女、ショックで仕事にならなくなるかもしれませんからね」
はあ。僕はため息をひとつ吐いて、昼食をとりに外へでた。
それからの一月はあっという間だった。
僕は幹本さんにどれだけのスキルを教えてあげられたか不確かなままでいた。
なぜ、急に僕が教育的になったのかも幹本さんにはわからずにいたせいかもしれない。
「命令口調じゃないんですけど、なあんか押しつけがましくなりましたよね。ここのところの草薙先輩」
「それなら一人でやっていけるとでもいうのか」
「ほら、なんか怖いですよ」幹本さんは眉をひそめる。
確かにそうだ。僕は焦っていた。一日も早く幹本さんに一人立ちして欲しかった。
会社はまた新しい人材を雇うことだろう。その時に、幹本さんがリーダーシップを発揮し仕事をこなして行けるのか。まだまだ心配な要素があった。
第一になんでも僕に訊いてくるところ。
「自分で考えてみろ」
と僕はいうが、なかなか定着せず変わらず質問をしてくる。
「今回は大成功でしたが、六月からどうしたいですか? 草薙先輩は」
「だからこないだいっただろう。連想ゲーム方式でアイデアを出していくんだ」
「ええ? 一人でですかあ? 草薙先輩はなにするんですか?」
「僕には僕のやるべきことがある。これからは君がリーダーだ」
「ちょっと待ってください」
鈍感な彼女にも何かが伝わったのか。
「草薙先輩、まさか辞めるなんていわないですよね」
ここが潮時だろう。ネタバラシはタイミングが大切だ。
「ああ、そうだよ。君が一人で六月のテーマを作り出すのを見届けて、僕はここを去るつもりだ」
幹本さんは藤子不二雄の漫画みたいな顔をして驚いた。
「ちょ、ちょっと、え? でも、なんで? どうして?」
「前の僕の先輩も、他にやりたいことがあるからと辞めていった。そして、僕も生きる道を見つけたから、この小さな事務所を去ることに決めた」
「え? でも、わたし一人でなんかやっていけないですよ。無理ですって。無理無理」幹本さんは胸の前で腕をクロスさせた。
「大丈夫。僕もその不安を乗り越えてきたから。そうしたら君が入社してきた。しかも、勘がよくて仕事ができる。君もいい先輩になれるさ」
「そんなおだてても、無理ですって」
「いいか、チャンスなんだ。一人立ちのね。大丈夫、部下はすぐにやってくるから」
「なんですか、その自信は?」幹本さんの瞳は潤んでいる。
「大学時代、スケッチブックやキャンバスに向けていた気持ちを思い出すんだ」
「大学時代?」
「そうさ。超新星爆発みたいな時期があっただろう」
「まあ、たしかにありましたね」
「その一途さを思い出すんだ」
「一途さかぁ」
幹本さんはなにやら頭を巡らせていた。
「草薙先輩は、その一途さを思い出したんですね」
そういって、泣き顔になった。
「そうだね」
「そんな澄んだ目で見ないでくださいよぉ」
彼女が涙を堪えているのがわかった。でも、僕がなにかを伝えても、いまは無駄なような気がした。
「とりあえず、六月あたりまではいるから」
僕はそういって広々としたデスクに向かって座った。釣られて幹本さんも席に着いた。俯いている。
女の子を一人、泣かせてしまったか。この歳で。
そこからの幹本さんはものすごかった。
なにがって、生まれたての山羊のように一人で立とうと必死になることに。
まだ早いが六月のテーマを決めるのにクロッキー帳にアイデアを描きなぐった。
「六月といえば雨······、雨といえばカタツムリ。うーん平凡か。雨といえば蛙。いや、やっぱカタツムリか。うーん、なんにも浮かばない~」
見かねて僕は口を挟んだ。
「生き物は必ずしも雨季のものじゃなくてもいいんじゃないか」
幹本さんの瞳に光が宿った。
「そうか! たとえば雨宿りしている人でもいいんだ!」
「そうそう、その調子」
クロッキー帳になにやら描いている。やがて、それを僕の方に向けた。
「こんなのはどうでしょうか」
見ると、一面は店の軒先にぽつりと佇む男の人。腕にはプレゼントらしきものを抱えている。次の一面は中学生くらいの女の子。手にはテニスラケットを持っている。最後の一面は、窓辺で外を眺める一匹の猫。
「とてもいいね」僕は親指を立てた。
「なにかダメ出しはありますか」
幹本さんは窺うようにいう。
「僕からはなにもないよ。なにが足りないか、どこまでを描くか、煮詰めていくうちに自分で気づくさ」
「わーん、冷たいー」
小さな子供のような幹本さんの泣き真似に、僕は笑った。
『ここまで見届ければ僕も後ろ髪を引かれることはないな』そう思った。
僕は所長に告げた。五月一日で辞めることを。丁度ゴールデンウィークにも入るので、僕がいなくなっても気にする者はいまい。
「また、ここの美術部の募集、かけますよね」
「まあ、そうなるね」所長は手で額を掻いた。
「なるべく早くお願いできませんか」
「幹本くんは一人立ちできるようになったんだろう?」
「はい。僕が見るところでは」
「なら大丈夫だろう。もちろん募集はかけるが、今日明日を争うことではないよ。心配ならもう少しいてもいいんだぞ」
所長が薄笑いを浮かべる。
「あ、いや、そうじゃなくて」
「草薙くんは草薙くんの道を歩みたまえ。なにも心配することなく。あとは我々に任せて。いいな」
「はい。ありがとうございます。本当にお世話になりました」
「いや、君の生み出すものはなかなか面白かったよ。こちらこそありがとう」
僕は帰りに画材店に寄った。五月一日まではまだ時間があるが、退職すると決めたら、一刻も早く新しい絵の具が欲しかった。
大きめのキャンバスを三枚、小さめなのを五枚買って配送してもらうことにした。
外にでると、鼻で空気を吸う。みぞおちあたりが震えた。
「ようし」
自分で自分に渇をいれる。その足で、例の公園まで歩いた。
彼女らはいるだろうか。僕のこの決意を話したらどんな反応を見せるのだろうか。
公園に着くと、はたしてそこに玉置さん母娘はいた。
「やあ」僕は声をかける。
「ぱぱ!」えみりちゃんが僕の脚にしがみつく。
玉置さんは柔らかい笑みを僕に向ける。
ベンチに買い物袋を置くと、彼女はそれを見ていった。
「あら、お買い物?」
「うん、画材をね、ちょっと」
玉置さんの顔に輝きが増した。
「絵を描くのね」
「うん。会社にも退職願をだした」
「うわあ! いよいよ描くのね!」
「ありがとう」僕は小さくいった。
「なにが?」玉置さんは首を傾げる。
「玉置さんが僕に火をつけたんだ」
「わたしが? なにをいったかしら」ふふふ、と笑う。
えみりちゃんがベンチに腰かけた僕の膝によじ登る。
「ひと勝負かけてみるよ」
「たのしみだわ」
母親は娘の脇に両手を入れ、自分の膝に連れ戻そうとするが、幼い娘は僕のスーツの端を握って離さない。
「えみりちゃん、ブランコ乗ろうか」
幼子は頬を真っ赤にし、うん! と頷いた。
僕がえみりちゃんの背中をそっと押してブランコを漕ぐと、となりのブランコに玉置さんが座った。
「調停、やっと終わったの」俯く横顔が美しい。
「そっか。おつかれ」
「慰謝料、ぶんどってやったわ」彼女は自嘲気味に微笑む。
「今度、飯でも食いに行かないか。もちろんえみりちゃんも一緒に」
玉置さんははっと顔を上げた。
「ほんと?」
「ああ」
「わたしが奢るわ」
「いいよ、割り勘で」
「慰謝料、ぱあっと使いたいのよ」
僕は喉を鳴らして笑った。
「それならご馳走になろうかな」
漕ぐのを止めた膝の上のえみりちゃんが、僕のネクタイをねじっている。
「えみりちゃん、好きな食べ物はなに?」
えみりちゃんは目をくりくりとさせて考えた。そしていった。
「いちご!」
僕と玉置さんは目を合わせた。
「そっか、それならいちごパフェ食べに行こう」
えみりちゃんは金切り声をだして、手を叩いた。
「いちごパへ!」
僕は玉置さんと連絡先を交換して、その日は別れた。
またえみりちゃんがぐずったが、「今度いちごパフェお腹いっぱい食べようね」と僕がいうと、満面の笑顔になった。
☆
スケッチブックにイメージを描く。奇はてらわない。上に向けて揃えた両手から炎が上がる絵だ。炎は紫色にしよう。背景に金箔を貼りたいから、今度買ってこなければ。
僕は実家に戻っていた。預金通帳を父親に渡そうとしたが、「甘く見るな。そうそう簡単には成功は得られんぞ」と頑として受け取らなかった。
三度の食事も父親が作っていた。「なんだかすまないね」というと、いいボケ防止になる、とにやりと歯を見せた。
ときどき二人揃って母親に会いに介護施設を訪れていた。
最初は僕の顔を見ても名前がでてこずに、もどかしそうな表情を浮かべていたが、達彦だよ、と告げると嬉しそうに僕の手をぎゅっと握った。
車椅子に座った母親がなにかを思い出したように僕の顔を見上げた。
「達彦、あなた絵は描いてるの?」
「ああ、描いてるよ」
「あらあ、観たいわ。今度持ってきてちょうだい」
持ってこれるような大きさではないが、僕は「今度ね」と返しておいた。
僕がしばらく前に、予感めいた思いを胸のすみに抱いていたことを思い出した。
会社の仕事。同僚たち。中でも幹本さん。そして玉置さん母娘。
僕にはこうなることが必然だったように思える。
ここからは己との闘いになるが、いつか形にして皆に礼を述べたい。
-いつか、必ず。
完
ヘッダー画像はkyo☆koさんの絵をお借りしました。