誹謗中傷、自殺(身内)経験者として
ショッキングな事件があったようです。
世の中が変わる時には、必ず
象徴となるような、トリガーを引く出来事があり
少しずつ共通意識が変わると言われます。
そんな話を聞いても
人が死ぬのは、ショックです。
コロナに関しても、収束してきて
数字上は少なくなりましたね。
「海外に比べれば、死者が少ない」
「死亡率が低い」
というのも、良いニュースですが
身内で死ぬ人が出れば
全体の割合なんて一切、関係ありません。
自分にとっては
身内の死が100%ですからね。
・・・
で、僕自身は
・Youtubeで誹謗中傷をそれなりに
・親友、身内の自殺
を経験してきました。
なので、一般的に向き合われないテーマと
深く関わってしまいました。
そのため、一般的には非常識と思える見解を
今回は話してみようと思います。
※非常識な話もあるでしょう
まず、誹謗中傷ですが
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自分に安心している人
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は他人を批判したり
攻撃したりは、しないですよね。
だから、多くの人が
「自分は愛されてる」と思えば
全部、解決だと思います。
とはいえ、そんな事は
かなりむずかしいのはわかります。
ネットで批判する人は
・他人を叩く事で
自分の優位性を得たい
・自分の優位性が証明される事で
自分の存在価値が高まる
全部が、そうではないかもしれませんが
ほとんどコレじゃないかと思います。
僕が、Youtubeに動画をあげた時
すぐに100万再生まで伸びた動画がありました。
んで、めっちゃ
攻撃的なコメントがくるんですね。
もちろん、話が下手くそで
イケメンでもなければ、まぁ
ある程度、叩きたいのもわかりますよ(^^;
イケメンで、話し上手でも
叩かれまくる世の中ですからね。
とはいえ、一時期は毎日
批判コメントが届いていましたね。
大した動画でないのは
わかってましたが、あまり多いので
「なんで、この人たちは
そんなに叩きたいんだろう?」
「何が悲しくて、自分の人生の時間使って
他人の批判なんかしてるんだろう?」
と考えたくもなります。
すると、ざっくりみんな
さみしいんだって話になります。
だから、みんな自分が愛されてると
実感すれば、消えると思います。
ただ誹謗中傷は、誰でも凹みますね。
どんなに慣れても、凹むし
画面の向こうに人がいると感じられない人は
あまりネット向きでないかもです(^^;
誹謗中傷の話は、長くなりすぎるので
自殺の話をします。
自殺について思うのは
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死に方の多様性
==================
をそろそろ、認めても
良いんじゃないかと思ってます。
自殺OK、という事ですね。
(イカれてんのか)
まぁまぁ、、、
身内の自殺経験ゼロの人と
経験者では、また違うので聞いてください。
(いや、聞かなくてもいいけど)
僕は大学時代に
親友が1人、自殺しています。
ショックでしたし
「なんで?」
「一言相談してくれれば…」
と、そりゃ悔やみました。
当時、大人数の飲み会を主催していて
しばらく会をやってなかった時に
その彼がバイト先に来て
「また、やらないの?」
「久しぶりに飲みたいな」
なんて、言いに来たんですよね。
その時は、いろいろ
人間関係が複雑化してたんで
「また落ち着いたらやるかね」
なんて言ってました。
それから数ヶ月後、
彼は、自ら命を断ちました。
お酒が大好きで、ばか騒ぎしてた仲間で
「あの時、飲み会を再開すれば」
「話せる機会を作れたのに」
なんて、責任を感じたり
いろいろ考えてしまいましたね。
それから「世の中から自殺をなくしたい」
を胸に、社会で頑張ってました。
しかし、数年後に身内が自殺します。
「まさか」でしたし、俺の人生は
そこで終わったと思いました。
「もう、やりたい事なんてないな」
「俺の夢は永遠に叶わない」
と思いました。
なぜなら、みんななんとなく
幸せに生きてる事が、理想だったからです。
もう、それは一瞬で
叶わなくなりましたね。
自分より後に死ぬはずだった人間の
遺品整理なんて、サイアクの気分ですよ。
「こんなはずじゃなかった」
と思わされるには、十分すぎる威力があります。
それで、僕も目標を失って
生きる意味なんてありませんでした。
しかし、そいつが死んだ理由も
「生きる意味なんてない」
と思ったからであって、僕が
それに続いてどうするって話です。
それこそマヌケです。
なので、とりあえず惰性で
「全力で生きる」しかないわけです。
そこから、自殺や死について
余計に考えるわけです。
「自殺をなくしたい」と思いながら
身内が自殺するとかネタですよね。
マジで、マヌケです。
「足元見えてない」代表みたいな感じで
ガチで終わってるなと思いました。
という結果を抱えて
何年か、生きてみてたわけです。
それで気づきましたが、僕は
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自殺を選んだ人を許せていない
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とある時、思ったというか
気づいた感じでした。
「なんで死んでしまったんだ?」
「なぜ一言でも話してくれなかった?」
という気持ちがありましたが、結局
その気持ちの中に、彼らの選択を尊重できない
認められない気持ちを感じました。
とはいえ、自殺する選択を
無理に受け入れる必要なんてないと思います。
僕は、彼らが生きる事も
そして死ぬ事も受け入れたいと思ったんですね。
何年も悩んで、前に進みたかったんです。
それで思ったのは、死ぬっていうのは
生きる事の一部ですよね。
生と死は、相反するものでなく
セット販売ですよね。
死に様も、その人の生き様や
生き方の一部に含まれるわけです。
そりゃ、悔やみまくりましたが
彼らの生き方を否定したくはないと思いました。
受け入れたいと思いましたね。
すると、
「死に方を選ぶのも
生きる者の権利ではないか」
と思い始めました。
この辺の思考が
めちゃくちゃ頭おかしいですよね。
でも、そう思ったのも
理由があって、例えば僕が
「自殺、ダメ、絶対」
「自殺ボクメツ」
と思ってる強烈な自殺反対者だったら
本気で自殺したい人は
僕に、相談してくるでしょうか?
…絶対しないと思います。
なぜなら、自分の考えを
真っ向から否定されるに決まってます。
死にたい理由も聞かずに「ダメ絶対」です。
そんな奴に相談する人は
やっぱりいないなって思ったんですね。
だから、自殺を減らそうと思ったら
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社会が、死に方の多様性を容認する
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そして、死にたい願望を
フランクに語れる方が良いと思いました。
「そろそろ死にたいんだよねぇ」
「へぇ、そうなんだ。どうかした?」
みたいな。
スイスなどでは、病気などの関連で
「安楽死」を選択できる環境がありますよね。
だから、死に方の多様性についても
日本では非常識ですが
「ダメ絶対」
では、ないのかなと思ったりしてます。
むしろ、ダメと言われると
やりたくなるのが人間なので
「死にたい」
と言った時に、まずクッションとして
それを受け入れてくれる人が
増えている事が重要と思いました。
思考停止で「ダメ絶対」なんて言っても
何も変わらないと思います。
アプローチを変えて、自殺を
まず一度、受け入れるスタンスが
逆に、自殺を減らすのではと思っています。
(頭おかしいですね)
自殺で残された人たちが辛いのは
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被害者と加害者が同一人物
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っていうのもあると思います。
例えば、今回の事件では
誹謗中傷が引き金だと言われてます。
でも、最後の最後に
自分を殺すのは自分なわけです。
なので、現象として
自殺遺族の人たちは
・被害者の遺族であり
・加害者の遺族でもある
そういう特殊な状況が
あるのではないかと思います。
大切な人が死んでしまって
悲しいけど、その悲しみを
何かにぶつけられるわけでもありません。
例えば、誰かに殺されたのなら
怒りの対象はシンプルに、加害者になります。
しかし自殺の場合は
被害者が、加害者でもあります。
大切な人がいなくなってしまった原因が
最後の最後は、その人本人にも
かぶさってるのが、感情を複雑にします。
感情がぐっちゃぐちゃになって
直面した事のない混乱を招いていきます。
「なんで死んでしまったの?」
「そっか、お前が自分を殺したのか?」
「お前が被害者で、お前が犯人か」
そういうわけのわからない論理が
頭の中で、グルグル巡っていくわけです。
そこで、
「自殺するなんてありえない」
と思っている人ほど
その選択を、長期間にわたって
許せない状態に陥ると思います。
つまり、被害者であり
加害者である当人を受け入れられません。
僕は正直、とても許せなかったですね。
普通に今も生きていて
一緒に楽しくやってた方が良いと
思った事は、何度も何度もありました。
だから、友人を殺した友人本人を許せない
感情の種がずっと心にありました。
それが、僕が苦しむ
根本原因の一部になっていました。
しかし、死に様は生き様の1つと考えたら
少しずつ容認できるようになってきました。
生と死を区別して考えて
世界に境界線を作ると、どちらかをひいきし
どちらかを認められなくなります。
戦争も、賛成派と反対派がいれば
それ自体が戦争の火種になります。
境界線がなければ何も起こりません。
そんなわけで(どんなわけだ)
「夢が叶わないくらいなら
死んだ方がマシだ」
そういう感じで、僕の周りでは
自分で死んでいった人間がいました。
そのアホみたいな潔さは
ある意味、彼ららしいのかもしれない。
そう考えてから、少し
気が楽になっていきました。
まぁ、自殺なんて理由はそれぞれで
事情なんて全員違います。
だから、僕の話なんてのは
ほんの0.0000001%の事例に過ぎません。
でも死を選んだ当人を「許す」のは
まず、楽になる一歩かなと思います。
ただ、経験しなければ
永遠にわからない話かもしれません。
もちろん、僕は1人で
問題に立ち向かったわけではありません。
周りの多くの人に、相当
迷惑をかけまくったあげく、、、
今も悠々と生きているわけですね(苦笑
こういうのは、今回のニュースとは
全然関係ない話だと思います。
ただ僕自身が、楽になるために
話しているだけの可能性が高いです。
世の中では
・コロナウイルスで死んだり
・自殺で死んだり
毎日、いろんな人が死にますよね。
常識的な言い方ではないかもしれないけど
人間が死ぬのは、自然な事です。
医療が進歩し過ぎたり
戦争が目の前からなくなったり、、、
そういう変化のおかげで
日本人は「生きてて当たり前」だと思ってます。
生は日常、常識であり
死は非日常、非常識です。
冷静になれば、そんなわけないですよね。
周りの人が突然、死んだ時には
「生きていた事が奇跡だった」と気づくかもです。
僕は、そう思いました。
死ぬのが、奇跡的な確率なのではなく
人間は100%死にます。
平均寿命が何歳だろうが
死ぬ時がくれば、死にますよね。
だから、生きてる事を
当たり前と思い始めたら、、、
本来、自然現象であるはずの
死ぬ事が、奇跡みたいに扱われ始めます。
いやいや、死にますって。
死なない人間なんていないんだから。
もちろん、わかっていたって
大切な人が死んだらショックです。
僕だって、周りの誰かが死んだら
めちゃくちゃショックを受けて、泣きます。
でも、そういうもんです。
原因が何だろうと、人は死ぬので
生きている事を当たり前と思わないのが
大事なんじゃないかなと思います。
今、生きてて幸運ですよね。
死んでしまった人がいたら
今まで一緒に生きてくれていた奇跡に
感謝する方向だってあります。
僕は、大切な人をなくしてしまったけど
20年くらいの間
「同じ世界を一緒に生きてくれた事」
に、とても感謝ができたから
なんとか今を生きている状態です。
ま、彼らのような高い志は
僕にはないから、生きられてるのかもです。
自ら死ぬ度胸も、僕にはありません。
いつか死ぬ時がきたら死ぬ予定です。
そういう感じで
気楽に生きていこうと思ってます。
・・・
しかし話が長いな。
こういうので、誹謗中傷ってヤツが
届いたりするんですよね。
「お前は間違ってる」
「お前の話は長い」とかね。