masa
ショートショート作品を書いていきます!
歌に関して所見を書く。基本的に自分が理解するための記録なので、ほとんど理解できません。
日々、心を通り過ぎていく一瞬の風景を切り取って、小説にしていきます。小さな物語を日々楽しんでいっていただければと思います。
小説「月読の詩」を定期的に書いていきます。イメージを大きな枠で動かしていくという試みです。
時間が余ると妙に不安になる。その不安を消すには、自分にタスクを作り出すことしかないだろう。一番カンタンなことは、やはり文章を書くことだ。その瞬間瞬間に自分が考えたことを、言葉に置き換えていく。それはアドリブで言葉を、延々と紡ぎ出してい漫才師のようだ。即興は大切だ。頭の訓練にもなる。 不安の原因は、書いてみることによって明らかになる。自分の中にただよう漠然とした不安は、正直、呆然と突っ立っているだけでどうにかなるものではない。行動によってのみ不安をは解消される。やはり、そ
国語力が低い。 なんて話をたまに聞く。個人的にはその感覚はわからない。 俺はすごいぞ。ということを言いたいのではない。ただ、「しっかり日常生活を営むことができている」人が多い昨今、本当に「国語力」が低いのか。そこには疑義を抱かざるを得ない。 しかし、それと同時にXを中心としてSNSでの、罵詈雑言を見るにつけ、確かに「国語力が低い」人がいるのは事実のよう。ただ、それは真に、「文章」が読めない、というよりは、発信者・受信者としての互いのプロトコルの問題であるような気
ファンタジーを書くことは大切だ。想像力をふるに使って、新しい世界を作りあげる。その頭の使い方は必要だ。だから人はファンタジーを求めるし、作り続ける必要があるのだ。 現実が困窮してきた中でこそ、ファンタジーが力を持つ。 ファンタジーただ「空想」ではない。 それは現実を相対化する「異化」としての機能を持つ。現実に現実をぶつけても、世界が混沌としてきた時ほど、想像力が力を持つ。 私はその想像の世界に身を投じていきたい。
構造を描く。すべては構造に従う。再生産を可能にするのは構造があるからだ。真実に潜む構造。いや、構造が真実を生み出す。 短い言葉え、クリティカルな事実をおびき出す。漂う現実を、確固たる自己へと回帰させる それを、それこそが構造と呼ぶにふさわしい。すべては構造に従う。 連続される読解に耐えうるもの、それが構造を持つということ。 改めて、世界は構造に従う。 故に、そこに着目して書く。必然的に、闇の果てから言葉を導き出すことができる。
ドラマ視聴。 時間を潰すにはちょうど良い。 感情が交錯する。それは、物語の必定だ。 人は命を持つ。命が、交われば、そこに人生が育まれる。 悲劇か、喜劇か。 画面の外で見れば、それはすべて喜劇なのかもしれない。しかしひとたび、画面の中に感情移入すれば、それは悲劇に他ならない。 人は何かに操られる。だからこそ、泣き、叫び、そして笑う。 人は、感情のために鬼になる。感情の前に、ひれ伏す。 そんな瞬間を捉える。人間の四肢が、映写の妙が人間の、真理を描く。
そこにいけば、なんでも手に入った。 そこに一区には頭の裏側から行くのだ。目を閉じて、静かに地下の世界に入る。 それは夢なのか、現実なのか。 夢の中を泳いでいるようだ。人は地下質を泳ぐ魚のようなものだ。 比喩で、世界を慰めようとしている。 比喩で、力をいさめようとしている。 僕は言葉の上で自由になろうとしている。世界を旅するだけだ。 人は言い訳の前でしか、地面に立脚することができない。 心理は、常に雲のようだ。定まらない。 孤独を解消するために、
結局、なんとなく続けられるものが、大切。 その行為そのものが、どれだけ自分の目的合致していたとしてもそれが自分にとってストレスの温床となるのであれば、それを継続することができない。 例えば、漫画家になりたい人が、漫画を書くことにストレスを感じてしまうようであれば、それを継続していくことは難しいだろう。 もちろん、漫画家にはストレスがつきものだ。しかし、そのストレスの原因のほとんどは、漫画を書くことではなく、「漫画を書き続けなければならない」という労働環境のためであろ
上か下か。燃えるような言葉を紡ぐ。世界を捉える視覚のその狭間に、形が生まれる。わかっている。自分の貯金残高と同じくらい正確にそのことについて知悉しているのだ。 空になったペットボトルみたいに軽い言葉のようにも思う。質量を失ってしまう。だっすいしょう 上か下か。燃えるような言葉を紡ぐ。世界を捉える視覚のその狭間に、形が生まれる。わかっている。自分の貯金残高と同じくらい正確にそのことについて知悉しているのだ。 空になったペットボトルみたいに軽い言葉のようにも思う。質量を失
夜になると、急に頭が冴える。 こんな風に思っている人もきっと多いと思う。僕は間違いなくこの「夜に覚醒する人」なのだ。 なぜなのか、正直よくわからない。 昼間に何かをしようとしても、あまりうまくいかない。集中力が切れてしまうのだ。 もちろん、平生、日中は勤めに出る。そこでは集中力が切れるのか、というと答えは、ノーだ。 仕事は仕事でしっかりとやる。そこでは集中力が途切れるなんてことはない。それは社会人としての責務だ。 むしろ、仕事があるということが一種の「緊張感」を
なんとなく、追いかけられると、かえって遠ざけたくなる。 本質的にそういう人間なのかもしれない。 自分から追いかけていく分には、心は盲目だ。ただただ、必死だ。周りに目もくれず、自分の目標に邁進する。そうなると、人は気持ちがいい。迷いなく、未来に向かって進んでいく。 それは自立であり、自律である。それはすなわち、自分の内部から、「自己」なるものを、そぎ落とし、自分なるものを自分の内側に明確に位置づける行為だ。 誰かに追いかけられると、それが逆転する。誰かに執拗に必要とされ
どのエディタを使って文章を打ち込むのか。案外、これが大切なことなのかもしれない。とにかく、自分におって、使いやすいものを選ぶべきだ。それを選択することができれば、それだけで、答えに近づくことになる。 文章を書くことは、簡単だが、面倒くさいこと。もっとシンプルに情報を表現する方法を自分の中で極めていければいいなと思っている。見えなくても、文章を打つことはできる。いや、むしろ、視覚を一時的に遮断すればこそ見えない文章を正確に捉えることができるはずなのだ 文章は、「音」と「形
表現することは、自分の体を経由させていくことだと思う。様々な刺激が素粒子のように体に入ってくる。それを脳が完治して、脳の中に蓄積していく。それがある生き血を超えると発散する良くが出てきて、表現へと至る。もしかしたら、ある程度の刺激的な情報を多く脳内に留めておくことができないのかもしれない。「発散したい」という良くは、おそらく人間の本能的なものなのだろうと思う。 大切なことは「身体」だ。体、ではなく、意識の総体としての身体が必要あんおだ。身体は、そこにある。そしてここにもあ
好きなものを、好きと他人に言えない。 そんなことがよくある。自分の好みを自信を持って伝えられるほど僕は強くない。 強さ、弱さ、という見方も奇妙かもしれない。好きなものを伝えるだけで、自身の心の強弱を問われるなんて。 誰にだって、大切なものがある。それを、うまく伝える力。それは、きっと重要な力なのであろう。綺麗なものを嫌いと言うこと。それはきっと大切なことなのだろう。 愛を奏でること。きっと、好きの源泉はそこにある。伝えることを、うまく伝えること。喜びを、個人の
はんこを、買った。可愛いキャラクターのやつ。スタンプといった方が正確だろうか。 それをインクにつけて、紙に押す。赤インクの隙間からキャラクターがあざやかに顔を覗かせる。押韻の中に、世界ができあがる。僕は、いくつものはんこを紙に押した。その度にキャラクターが増えて、世界が複製されていく。気付けば、机の上にあった、小さな紙片はキャラクターで一杯になった。単体では愛らしいキャラクターも、これだけ林立すると奇妙だ。かわいいが渋滞している。何事もある量を超えると、とたんに奇異な印象
ここではないどこかへいきたい。だから、僕はこのような形で文法を書いているのだと思う。文章を書いているのは嫌いではない。頼まれなくてもちゃかちゃか文章を書くことを日課にしている。誰が読んでいるとか、気にならないではないけれども、まあ、深く考えすぎてもしょうがないので、ただただ、自分の思いをコツコツと書き連ねていくだけである。 4月から、職場が変わった。これは尾本当の話。仕事が違えば、スールも変わる。世界の在り方が、本質的に変わってくる。文化はルールを作り出す。また、ルール
日々勉強をする。毎日を積み重ねる。それだけのこと。誰にもわからないことでも、自分にとって大切なこと。誰にも邪魔される必要はない。文章を書くと、自分が研ぎ澄まされていくのを感じる。無駄がなくなり、自分が純化される。自分は一人ではない、孤独だけれども、一人ではない。それは矛盾しない。空間的な独自性と、時間的な独立性は違うものだ。 音楽を聴いていると、時間に飲み込まれる。始まりと終わりがそこにあって、僕は瞬間的に、世界を通底するリズムから切り離される。音楽は自分を相対化