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その警鐘が聞こえるか

先日放送された「日曜日の初耳学」にゲスト出演したMrs.GREEN APPLE。
そこで触れられた「ケセラセラ」の歌詞は『希望と諦観』を歌っているという内容。

「諦観(たい(てい)かん)」、「諦聴(たい(てい)ちょう)」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。

〜中略〜

ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する、という思考のプロセスをそこに見出せる。

諦める/生活の中の仏教用語/読むページ/大谷大学

世の中望みが全て叶うというわけではなく、
起こっている現実を受け入れるということ。
何もしないとかそういう意味ではない。
前へ進むための諦めだ。
人々の背中をそっと押してくれる言葉は、
ケセラセラ以外でも多く歌われている。


最近ふと思うのが、
彼は常に心が揺らいでいるのではないかということ。
人は愛しく美しいと思いたいと願いながら、
醜い人々の姿に嫌気が差す。
どれだけ自分の気持ちを奮い立たせても、
どうしたって自分一人の力で動かせないことがある。
言葉で、
行動で、
施策で、
歌で、
つぶやきで、
あらゆる形で幾度も伝え続けているのに、
伝わり切ることのない想いに辟易する。
人で居ることが嫌になる瞬間がある。
それでも触れる人の温かさや優しさに、
人であることを諦めることができない。
ずっとその繰り返しで藻掻いているのではないのか 

本当に我々は 遠回りする生き物
嫌気が差すよ 共々

アポロドロス/Mrs.GREEN APPLE

幸せになりたい、
平和な世の中にしたいと望んでいながら、
その望みをきっかけに争いを引き起こし、
ゴールから遠ざかる。
鬱々とした様子が色んな曲から感じ取れる。
彼は我々に、
この矛盾に気がついて欲しい、
このままでは危険なのだと警鐘を鳴らし続けているのではないかと思っている。




Siipというアーティストをご存知だろうか。
羊の仮面で自分を隠したシンガーソングライター。
地球の創生から繰り返す生を歌い、
悲痛な感情や、
愚かさ・虚しさ・遣る瀬無さを歌う。
そして神からの視点でそれらすべてがシナリオ通りなのだと言うふざけた神を揶揄する。
あくまでもわたしの感覚ではあるけれど、
Siipというアーティストは「人間」の愛しさと愚かさを歌っている。


紹介したいのは「オドレテル」という曲だ。

このSNSが当たり前になった世の中で、
人々は特定の人を公開で吊るし上げる。
その人がどんな表情をしているのかも知らず、
周りがどんな表情をしているのかも知らず。
フィジカルアタックこそないために、
ただ宙に浮いて曝される。
そんな現代を嘆き訴えているよう。

軽々突き刺せる刃物を
君は持って居る
目と目で通じ合う事さえ
忘れてる愚民

オドレテル/Siip

叶わない夢を見てる
溺れられず踊れてる
望まない代償がある
顔知れず戯けてる
消えれずに浮かんでいる

オドレテル/Siip

人を愛したいのに、
きっと人はこの先も繰り返すだろうという諦めがある。
人間でいる事から目を背けたくなることがある。
より良い世界が訪れて欲しいと、
誰かが不要に傷付き命を落とすことがないようにと、
各々が本気でそう望むようになってほしいと、
その願いが叶えばいいと心から思う。


どれだけ警鐘を鳴らしても、
人は聞き慣れてしまうもので、
それはただの耳障りな音と成り下がる。


最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

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