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格闘技が教えてくれたこと

私は趣味で柔術をやっている。
現在6年目に突入。
これは今まで挑戦してきたものの中で最も難しいものだ。ドイツ語より、ジャズのアドリブより難しい(笑)

外国語ができることをすごいと褒められることは多いが、私からしてみると外国語など首から上をチョチョっと使うだけのこと。しかもほぼ脳内で解決することで多少の表情筋と口腔内を使うだけに思える。柔術と比べると。

なぜ?格闘技?とよく聞かれるが
私は性格的に勝ちたいとか強くなりたいとか
そういう動機はほとんどない。上手くなりたいというのはあるが。

それよりも技の持つ構造的な論理性を理解する過程、それを体に落とし込んでいく時間、
それを使ってみて、通用する瞬間(滅多にないが)が楽しくてたまらないようだ。自己分析するに。

そんなことを夢中でやっているうちに
汗だくになり、ものすごいカロリーを消費する。
ジョギング、筋トレ、単調なものを全く継続できない私には体を動かす動機づけが不要なほど続けることが苦にならない。

全身の部位に意識をめぐらせ、
相手の動きを読みながら防御し、同時に攻めていく。

守らなければ、やられるし、
守るだけでは、攻められない。
語学の方がよっぽど簡単だ。一人でいくらでも
練習できるし、いくら練習してもアザもできないし打撲も捻挫も突き指も骨折もしない。脳内疲労ぐらいだろうか(笑)

ま、でも、何が難しくて何が簡単かは人によって違う。おそらく私は恐ろしく不向きなことに魅了されていい大人になってめちゃをやっているんだろうという自覚はある。

ただ、私が柔術を通して学んだことは技だけではない。

柔術には柔道や空手のように帯制度があり、最初は白から始まる。
私は3年半、白帯を巻いていた。白帯の特に初期、私はいつもアザだらけだった。

真夏にスーパーでお買い物をしていたときに
ご高齢の男性に眉間に皺を寄せるような哀れみに満ち満ちた表情で凝視されたことがある。え?と、ふと自分の体に目をやると直径10センチほどの特大の真っ黒なアザ、出来立てホヤホヤの赤いアザが無数にある両腕をノースリーブのドレスを着て、人様に晒してしまっていた。
何かを羽織って隠すべきだったが暑いのでうっかりしていた(笑)

あざができるのはいろんな理由がある。
まだ理に適った動きができず、無駄にいろんなところにぶつかるからだ。でも自分にあざができているということは相手にも少なからず、痛みを与えているはずなのだ。

体にも力が入っていて、上手に脱力もできず、
相手に接触したときに、より強くぶつかるからということもあるだろう。

実際、初期の頃は体に力が入りすぎていて
スパーリングが一本終わると両手の指がガクガク
震えているぐらいだった。要するに弱いのだ。

今でも脱力は難しいが、アザは滅多にできなくなった。自分では強くなったなどとは思ってないし
むしろ下手すぎて本当に嫌になるぐらいだが(笑)一つ、大きな変化を感じる点がある。

道場の外で、力の入った誰かの弱さを感じるときに冷静に受け止めて、すぐに処理できるようになった。

怒りや嫉妬や苛立ちや傲慢さといったものを
エゴの玉からぬるりと堂々と出してそれを感じる対象になんのためらいもなくぶつける人々。
それを出している自分の姿への客観性も失うほど弱いのだ。きっと。

出している瞬間はきっと気持ちいいんだろうが
人に痛みを与えた時には、きっとどこか自分にアザができているはずだ。

白帯の頃にすごいアザができるたびに、昔なら女子として悲しんでいたことが不思議とおかしくてたまらなかった。
こんなになってもこんなに夢中になれることって
そんなにないと思った。

今、青帯を巻き、アザも滅多にできなくなり、
一抹の寂しさを感じないでもないが(笑)
少なくとも道場の仲間や先輩に昔よりちょっとは
意味のない無駄な痛みを与えないようになっている自分を褒めてあげたいと思う。
そして鍛錬を投げ出さなかった自分を誇りに思う。

そして道場の外でも、見えないアザが自分にできるようなことをしない強い人間でいたいと思っている。

鈍臭いし、弱いし、覚えも悪いのに、ずっと一緒に練習してくれる仲間、呆れるほどに強くならない私に真摯に教えてくださる先生方にとても感謝している。

「道場」は私にとってとても大切で愛すべき場。

Standfmの道場も一年経っていい仲間や先輩がたくさんできた。
noteの道場もこれからどうなるのかとても楽しみだ。押忍



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