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多言語話者の「頭の中の教科書」5

私の日本語のレッスンの生徒さんたちはほとんどの場合が多言語話者だ。
今の生徒さんの一人が特に多言語話者の学びの典型的な「型」を見せるので私はこれを記録として言語化し続けていこうと思う。それが英会話に苦戦する日本人を救う新しい視点や考え方になると思うからだ。

彼らの学びは「話すため」であり、それは日本で一般的に「外国語のお勉強」とされているものと対極にある。おそらく日本人が「無理だと思う」あるいは「想像もしていない」方法だろうとも思う。(そういう学びができる日本人ももちろんいるが、それは日本語でもコミュニケーション能力も含めて明確な言語化ができる人の場合が多い。)

全くゼロの状態から日本語を学び始めて、半年が経った。レッスン時間はまだ二十時間にも満たない。でも、彼女はもう日本語で話している。自分に起こった出来事、どこに行った、何をしたというような内容だ。ゆっくりと、彼女のペースで時々間違えながら、とにかく最後まで言い切る。先週、習った新しい文法もちゃんと入っている。

レッスンの冒頭の空気感は毎回同じだ。私の指示も待たず、当然のように日本語で挨拶し、日本語で話し始める。毎回変わるのは彼女が表現できる領域だ。少しずつ増えていく。

外国語学習の経験が長いと特に初期、ある感覚に慣れっこになる。
多言語話者の学びはまさにそれだ。

それは「最初は思った通りのことは話せない」という感覚だ。

彼女の質問はいつも習ったことより、今自分が話せることより、
ほんの少しだけ難しいこと。
この辺の絶妙な匙加減が多言語話者は本当に上手い。
だからこちらも直訳だと長くなるような日本語ではなく
もっと簡単な構造で同じ意味のものを瞬時に考えなくてはならない。

彼女の質問を直訳すると

「同僚の一人がそこがいいと教えてくれた」

こんな感じがこなれた自然な日本語になる場合、
これは初級者には複雑すぎるのでこんなふうにする。

「そこは同僚のおすすめでした」

もう少しレッスンの時間数をこなすと、こういう変換は生徒さんが自分でできるようになる。

彼らの学びは楽器の学びに例えるとわかりやすいかもしれない。
ピアノを子供の頃に習っていた方はバイエルという教本をご記憶だろうか。

最初は全音符、二分音符、四分音符、ターン、タンタン、タタタタぐらいの単純なリズムを体に叩き込んでいく段階だ。慣れてしまえばなんてことはない基本中の基本のような技術だが、最初は意外とできない。多言語話者が初級の初期によくいう言葉は「とにかくシンプルな文」だ。彼らは語学のバイエルのステージでは、単純なリズムが自分の体に染み込むまで、とにかく話す。ターン、タンタン、タタタタと同じぐらいシンプルで短い文をゆっくりと何回も言おうとする。そして言おうとしてるのは教科書の例文ではない。自分の頭の中にある、自分が言いたいことだ。
だからきっと日本人が見たら、驚くかもしれないと思う。彼らは教科書をそんなにじっくり読まない。教科書の中にある練習問題を全部やったりもしない。

「行きたい」という文法を学んだら
本当に自分が行きたいところを話そうとする。
教科書で与えられた行きもしない場所を使って練習することもあまりしない。
とにかく自分の頭の中にある「話したいこと」をターン、タンタン、タタタタぐらいの中で完結させて言い切ることを優先する。細かいことや詳しいことは潔く諦めて、話そうともしない。

日本人の「話そうとする」瞬間を見ているとバイエルのターン、タンタン、タタタタもあまり練習していないのに、いきなりショパンの難曲を弾こうとして(うーん弾けない)となっているように見える。

「話せる文法」と「知識の文法」の乖離が大きいとこうなる。
いくら文法問題で正解が選べても、資格試験でハイスコアが取れても
自分の口でターン、タンタン、タタタタ、から話して練習する過程をすっ飛ばすとどうなるか。そう、ずーっと話せるようにならないのだ。


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